働くということ

 シャツにアイロンをかけた。スーツにブラシをかけて、鞄の埃も払った。明日から僕は社会人になる。
 「社会人」という言葉で指されるものが具体的にどういうものなのか、僕は良く知らない。社会人としてのマナーや常識といったものも、おそらく知らないだろう。僕は自ら積極的に社会人たろうと思ったことがないし、かと言って、社会人になんかなりたくないと思うほども社会人を知っているワケではない。それでも、僕は明日から社会人になるのだ。ある種のシステムの一環として、そうならざるを得ない。社会人になるっていうのは、つまるところ、ある種の人々を「社会人」と呼ぶようなシステムの一部として「社会人」と呼ばれるようになる、ということなのだ。たぶん。
 ところが、僕にとって「働く」ということの基盤は、そういったシステム――「社会人」をめぐるシステム――の根幹からややズレたところにある。以前誰かが僕に言った。「もう結婚してるんだから、キャリアウーマンにはならなくていいんでしょ?」と。つまり、バリバリ働いてエリートを目指さなくても、パート感覚で働いて子供の相手をしていれば十分でしょう、旦那が働くんだから、ということだ。旦那が働くのなら、あるいはそういう選択肢もあるのかも知れない。いや、旦那が働いたって、「いえ、私は私自身の価値を社会に知らしめたいんです!」とか、もっとキレイに言えば、「私だって社会貢献したいんです!」って人もいるだろう。でも、僕はどちらのタイプでもない。旦那に働いてもらってのんびり暮らすタイプでなければ、バリバリ働いて自己実現するタイプでもない。そして、現事実として、旦那には専業主夫をしてもらっている。僕の他に働く者はいない。旦那がこの先(近いうちに、であろうと、遠い未来であろうと)働くかどうかは、僕が決めることではない。と、僕は思っている。少なくとも僕は、旦那が働かなくても大丈夫なようにするつもりでいる。
 となれば、僕が「キャリアウーマン」になりたいか否かにかかわらず、それなりの収入を得る必要はある。僕がこれから働くことになる会社の給与体系がどうなっているのか、僕は良く知らない。でも、社会一般の傾向から言えば、女性の給与は男性より低い。そのくらい僕だって知っている。僕は働かなければならないし、ある程度の収入も得なければならない。人並みに働いていたのでは足りないかも知れない。「キャリアウーマン」とまではいかないにせよ、僕なりに誠実に、真摯に、全力で働かなくてはならないだろう。そうすることについての不安はない。僕にはそれができると思う。
 ただ、僕が“そうできてしまう”ことについての不安がある。仕事に対して親身になっている間に、僕の家はどうなってしまうのだろうか。
 僕が家にいない間に旦那がひとり疲弊していく。気がついたときには娘が言葉を話すようになっていて、いつの間にか幼稚園へ入学して、知らない間に小学生になっている――僕は何も知らない。僕が家のことを何も知らないまま、僕がいなくてもいい家になってしまう。「社会人」のにおいをさせながらウロウロする僕を、誰かが白い目で見るようになる――。そんな風に、僕は、なりたくない。たとえ上司に認められようとも、たとえ、親が僕を誇りに思おうとも、たとえ、仮に、僕が年に数千万稼ごうとも――僕はそんな風にだけはなりたくない。家のために働くのではないけれど、家がなければ働く意味がない。
 明日から、たぶん、僕のほんとうの「生活」が始まるのだろう。今もまだ、生きるのはこわいけど――。