枕とシロップと空白の時間

 最近、the pillowssyrup 16gを聴くと、泣いてしまいたくなることがある。そういう「泣いてしまいたい」気分っていうのは、僕にとってとても懐かしいもので、その懐かしさからまた泣いてしまいたい気分が生まれてくる。心臓の横の、胸の真ん中の、ちょうど鳩尾あたりを、懐古的な渇いた風が吹き抜けていくのを感じる。
 でも、それは僕がthe pillowssyrup 16gの歌っていることにシンパシィを感じるからじゃない。彼らの音楽は好きだし、部分的には、彼らの歌に込められたある種の気分に共感することもある。けれど、そういうのはごく一部で、僕が彼らの歌っていることを実感することはほとんどない。もう少しわかりやすく言えば、たとえば彼らの歌を聴いて「この人たちは僕のことを歌ってくれている」みたいな気持ちにはならない、ってことだ。あるいはひょっとしたら、彼らが僕と違う人間であることを感じるからこそ、泣いてしまいたくなるのかもしれない。
 泣いてしまいたい気分になると、たくさんのことをいっぺんに思い出せそうな気配がする。つまり、記憶が僕の背後を横切ったり、その影が視界の端に映ったりするのだ。でもそれはいつも気配だけで、懐かしい出来事がありありと思い出されたりはしない。僕はまだ、懐かしく思い出すべき記憶を持ち合わせていない。僕が思い出すべきこと――記憶として留めておくべきことは、むしろ僕の内部で、うずくまって息を潜めながらじっと動かずにいるのだ。
 そして、僕はただ、僕に空白の時間があったということだけを思い出す。

 かつて、僕には空白の時間があった。たとえば薄暗い子供部屋のベッドの上で、あるいは大学のキャンパスの片隅で、あるいは、九畳一間のマイルームで、ただぼんやりと座っている間にどこかへ消えていった時間のことだ。ひょっとすると、僕は何かを考えていたかもしれない。世界の始点(視点)のことだとか、どこかで死んだ誰かのことだとか、現事実として存在してしまっている僕の存在の実感だとかについて。けれどそんなのは僕が今思いついて言語化しただけのもので、あの時のあのあれ、と言えるようなものじゃない。たぶん、僕はあの空白の時間を、風の音やモータの音を拾いながら、無意識に床の目をなぞったりして過ごしたのだろうと思う。

 そういう時間があった頃に聴いていたのが、the pillowsSyrup 16gで、だから、僕は彼らの歌を聴くと泣いてしまいたくなるのかもしれない。