メィ(羊?)

「うるさい黙れ!」と怒鳴りたくなる。けれどそれは、あまりにも頻繁に起こることだから、いまさら怒鳴る気にはなれない。怒鳴るタイミングを逃し続けているのかもしれない。あるいは、怒鳴ることの無意味さを、僕は知ってしまったのかもしれない。


 飼い犬が手を噛むのは、捨てられるのが怖いからかもしれない。野良猫が懐かないのは、拾われるのが怖いからかもしれない。でも「かもしれない」は「かもしれない」でしかなく、僕が確信できることなんて何ひとつない。それはひょっとすると何も分からないということで、何も知らないということで、実は何ひとつ説明できないということかもしれない。そして、だから、僕は「かもしれない」をくり返しているのかもしれない。

「そんなのは逃げだ」と言われれば、その通りかもしれないし、「それは思い込みだ」と言われれば、やっぱりその通りかもしれない。どのようにだって言えるじゃないかと、僕は思う。だって、ほんとうのことなんてどこにもないのだから。「逃げ」や「思い込み」だったとして、それは、悪いことなんだろうか。善も悪も、結局「思い込み」じゃないだろうか。僕たちはどこに立っているのだろう。この両足が重力に従って大地を踏みしめているような気がしているだけで、それすらも思い込みに過ぎないかもしれないと、思わない人間などいるのだろうか。いるかもしれないし、いないかもしれない。どちらでも構わない。どうせ、僕には両方を見ることなどできないのだから。

 サイコロを振る。1が出たら、6は見えない。4が出たら、3は見えない。2と5を同時に見ることはできない。僕たちは、どんなに世界を多面的に見ようとしても、同時に、多面的に見ることはできない。それはつまり、同時に、多面的には描けないってことだ。何かを説明しながら別の何かを同時に説明することはできない。どこまでもどこまでも、並べ続けることができるだけで、並べ続けてつなぎ合わせても、それは世界そのものにはならないのだ。僕らが描く世界はいつも、必ずどこかが欠けている。埋まらない穴がある。絵具が足りない。紙面が足りない。スキルが足りない。時間が足りない。空間が足りない。違う。僕が、足りてない。

「○○さんって△△だよね」と誰かが言う。僕は、そんなこと知らないよと思いながら「そうかもしれませんね」と答えている。僕は「○○さん」を語れない。同様に、誰かの語る「○○さん」を否定することもできない。目の前で笑っている誰かが、楽しくて笑っているかどうかなんて、僕にはちっともわからないのだ。仕事場の同輩をこき下ろしている「○○さん」だって、こき下ろしている自分を嫌っているかもしれないじゃないか。そしてそれは、もしかすると僕のことかもしれないじゃないか。こき下ろしている人間も、こき下ろされている人間も。

 だけど、こんな風に「かもしれない」をくり返している僕は、結局のところ「自分に自信がないだけだ」と言われて終わるような、ただのくだらない生き物に過ぎないのかもしれない。


 言われているのが僕だとしたら、言ってるのも僕じゃないか。僕はいつも、誰かが聞いている3倍は喋っているんだ。まったくもううんざりだ。うるさい僕も、うるさい僕と喋ってばかりいる僕も、うるさい僕と喋ってばかりいるつもりになっている僕も、うるさい僕としゃべってばかりいつるもりになっているのだと思っている僕も……僕なんていないくせに。