くつしたを履くこと

 新しいくつしたのさらりとした感じが好きだ。新しいタオルのちょっとゴワゴワした感じとは比べ物にならない。くつしたに貼られたラベルをはがして、金属の留め具――名前を知らない――を外す。このゴミをあとで捨てようと思ってそのあたりに置いておくと、たいてい忘れてしまう。床に落ちていた留め具を踏んで痛い思いをしたことが何度もある。だから先に捨てておくべきなのだけれど、でも私はくつしたのほうが気になって、結局放りっぱなしにしてしまう。
 今日、新しいくつしたを下ろした。茶色のアーガイル。ダイヤ模様とラインの連なりをアーガイルと呼ぶのを知ったのは今年に入ってからで、つまり、アーガイルが流行しだしてから。でも私はたしか一昨年あたりからあのダイヤ柄を気に入っていて、でも、店先で見かけることは少なかったからあまり手元にはない。流行りだしてしまうと今度は買うのがためらわれる。そんな風に、私の服装はいつも流行を先取りしたまま流行に追い付かない。けれど、今回は茶色のアーガイルを買った。何しろ急いでいたもので、迷っている暇がなかったのだ。
 そういうワケで、私は今茶色のアーガイルを履いている。くつしたを履くとき、私はいつも地べたに座り込む。たいていみんな同じような格好で履くものだと思うのだけれど、でも、ひょっとしたら靴を履くときに座り込まなくなるように、くつしたを履くときにも座り込まなくなるものかも知れない、とも思う。私は最近靴を履くときに座り込まなくなった。ひとり暮らしを始めて部屋の玄関に段差がなくなったからだ。座り込むと履きづらい。だから立ったまま突っかける。かかとは踏まないけれど、つま先をしょっちゅう引っかけるから、親指のあたりがすぐに剥げてしまう。いつもそんな、安物の革もどきの靴を履いて出掛ける。と言ったところでよくよく思い出してみたら、家にいたころも、靴は座り込んで履かなかったかも知れない。何しろそんなにのんびり家を出ることなんて少なかった。いつも何かに遅刻しかけていたから。のんびり出るときは、やっぱり座り込んで履いていたかも知れない。座り込んで靴を履くのはマザコンだ、と聞いたことがある。そんな因果関係を積極的に認める気には、なかなかなれない。
 そんな因果関係とはまったく関係なく、私はくつしたを履くときに自分を男の子だと思っている。座り込んでくつしたを履く男の子。そういうイメージが頭の中に浮かんでいるのだ。私はそのイメージの通りにくつしたを履いている。小学校の低学年か、ひょっとすると幼稚園生かも知れないくらいの年格好。イメージが先にあるのではなくて、座り込んでくつしたを履くというあの行為は、自然にその男の子と結びついて客観視される。そういうのって他の人にもあることなのだろうか。と、考える。訊いてみたことがない。くつしたを履くときだけじゃなくて、たとえば、くぃ、と首をかしげてみせるとき、私は自分を猫だと思っている。起きてすぐに伸びをする時もそうだ。あくびをするときはドレスを着た女の子。どこかでそういう映像を眼にしたのかも知れない。それが行為と一緒にインプットされている。私自身をイメージしていることは、まずない。たぶん、私自身が行為している姿を眼にしたことがほとんどないから。私は私の顔もちゃんと覚えていないし、背格好だってイマイチよく分かっていない。だから、私自身がくつしたを履いているイメージを作ってみようとしても、なんだかよく分からなくなってしまう。
 今こうしてパソコンの画面に向かっている私は、どういうワケか誰でもなく、イメージを伴わないままキーを叩いている不思議。