泣けない姉さん

 その日、姉さんは完全にいつも通りだった。
 靴を脱ぎながら「ただいま」と言い、重そうなカバンを下ろし、食卓に向かって「おなか空いた」と呟く。山盛りのサラダをおかずに、控えめに盛ったご飯をおかわり。デザートにはプリンを食べた。その間、ゼミの教授がどうとか、友達の新しいカバンがどうとかって、くだらない話を延々とし続ける。時々、テレビに眼を向けて、可笑しそうに笑ったりもしていた。空になった食器を片付けた後は、同じ場所にノートを広げて、辞書を片手にドイツ語と睨めっこ。ふと気がつくと姿を消していた姉さんは、数十分後、塗れた髪をタオルで拭きながら寝巻き姿で現れた。そして、僕に向かって、くだらない話をしていた時と同じ調子で、こう言ったのだ。
「明日の朝、泣き腫らした眼を誤魔化すためにメイクして、無理やり笑顔を作って、アイツに『おはよう』って言ってやりたいのに、一滴も涙なんか出てこないの。ホント、クソくらえだわ」
 その日、姉さんは何かとても哀しいことがあったらしい。いや、哀しいはずのことがあったのだ。でも、泣けなかった。思い切り泣いてやりたい気持ちはあるのに。どうやら、哀しみを取り逃がしてしまったらしいのだ。
 何があったのか、僕は知らない。わざわざ聞く気にもなれなかった。ただ、あの時僕が話を聞いてやっていれば、姉さんは話しながら泣いたのかも知れない、という気にはなる。