ひどい話が嘘になる話

 いつだって、私が泣き出すより先に、嗚咽を漏らす人がいる。私が拳を振り上げるより先に、窓ガラスを叩き割る人がいる。私が笑っている時に、不安げな顔をする人がいる。みんな、私の分まで悔しい思いをしているのだ。それはきっと、私のせい。私が泣こうとせず、拳を握りもせず、くだらないことで笑いたがるからだ。だから、優しい人たちは、そんな私を見てため息をついたりするのだ。
 それこそ、ひどい話じゃないか。だって私はそのことを、知っているのだから。
 私が泣いて、腹を立てて、不安を訴えさえすれば、あの人たちが代わりに悔しがることもない。それなのに私は。私が、放棄するから。私が、僕や、俺を、置き去りにしたがるから。そんな我侭を貫こうとするから。ひどいのは私だ。私はひどいニンゲンなのだ。嘘じゃない。私は嘘吐きだけれど、これは嘘じゃない。だから、私の代わりに悔しがる必要なんて、ない。
 なんて、言ったところで、無駄なんだろう。実際私は泣くし、腹も立てるし、不安にもなる。あの人たちに優しくない世界を見ると。だってそうだろう? あの人たちは、私の代わりに、私"なんか"の代わりに……くそう。結局私は、自分を特別扱いしたいだけだ。自分で自分を認めていたいだけだ。"私だけは"どうだっていいのだ、と言っているだけだ。くだらない。ただのニンゲンのくせに。ああくだらないよ、くだらないさ! だからあなたたちは私を笑っていればいいんだ。それでいいんだ。大丈夫なんだ。でも、この言葉もまたあの人たちを悔しがらせる。それを知っているくせに私は言う。だから、私は、ひどいニンゲンなのだ。
 そんな私に好かれてしまう人ってのは、きっと、底抜けに優しい人で、優しい人に優しくない世界には、もちろん私も含まれていて、つまり、私はちっとも優しくないニンゲンだ。


 こんな風に断定することは、そこに含まれないものを断定的に否定することになる。否定するということは、批判し、非難し、反抗することで、それはつまり、どこかにそれが在るということなのだ。ないものを否定することはできないはずだ。だから結局、私の言葉には、羨望だか傲慢だかよく分からないようなものがたくさんくっついてきて、そのままの言葉を全部ひっくり返していってしまう。「優しくない私」は、いつのまにか「本当は優しい私」として語りだす。その言葉はどこまでも偽善的で鼻持ちならない。「実は優しくない私」がまた口を開いて語りだす。その繰り返し。
 何が「本当は」で何が「実は」なんだろうか。私が語る「本当は」や「実は」は、いつも勝手に暴れだして手に負えない。私の意図からは切り離されて、私の意図を規定し始める。そうして私は、何が「私」なのかも分からないまま、まじめな顔をして嘘を吐く。