それもある種の自己特別視

 オール・イコール・ナッスィング(All=Nothing)なら、ただひとつ例外を作ればいい。オール(All)でなくなればいい。じゃあ、何を切る? もちろん私だ。全てを愛し生きるために、私は私を切り捨てる。私は私のために生きない。誰かを愛するがゆえに、誰かが愛する私を維持する。それ以上の存在理由を、私は私に対して持たない。
 誰かが私に心の底から「死ね」と言ったら、私は死にたいと思う。それで相手が笑えるのなら、なんら問題はない。構わない、と本気で思う。思いたい。
 みんなが私の元を離れて、私を忘れてしまったら、私はすぐ消えてしまいたい。私は誰も追いかけず、誰にもすがるべきではない。と、言い聞かせ。私は救われるべきでない。私は誰も救えずに、傷つけてばかりいるのだから。救われずに苦しむべきだ。苦しむべきであるはずなのに、私は自分の苦しみを「苦しみ」と呼べない。呼んではいけない。そんなのは苦しみのうちではないと、思い続けていたいのだ。こんな、生き辛さなど、傷つき死んだものに比べたら。私のこれは苦しみと呼べない。
 誰かが死んでいくということ。何かが死んでいくということ。それを私は忘れたくないのだ。忘れていいはずがない。私がいつか放った言葉は、誰かや何かをひどく傷つけ殺しただろう。言葉はいつも凶器となる。イェスと答えればノーが死に、無回答を選べば問いが死ぬ。良い質問には答えがなく、答えがない質問は殺されている。私は誰も殺したくない。それでも私は生きていて、私じゃない誰かが死んでいる。私はそれが……哀しい? 悔しい? 我慢できない? 色々あるけど、とにかく、嫌で嫌で仕方が無いのだ。私以外の誰かが死ぬのは。こんな言い方をしている今も、誰かを殺しているように思う。悪意が無くてもナイフは人を傷つける。車は猫をひき殺す。でもそれは、ナイフや車を使うニンゲンがいるからだ。

 “世の中のほとんどの差は、直接か間接かの違いなのだ。”
 “意識しなくても、誰もが、どこかで、他人を殺している。”
                             ――『スカイ・クロラ』/森 博嗣


 そう、今も。
 だからせめて忘れずにいたい。私が誰かを殺し続けていることを。私が殺した誰かを愛し、私が殺すかも知れない誰かを愛し、私を殺そうとする誰かを愛す。
 でも私は私の手で殺す。殺すのはつらいことだ。殺されたものの叫びや、呻きや、すすり泣きや、うらみつらみ。姿の見えないそれらを全て背負うことになる。当然だ。逃げられない。逃げることは許されない。誰も私を背負うことはない。私なんかを、背負う必要はどこにもない。私が私を背負って死のう。
 私が死ぬということは、私の中の信念も、同時に死ぬということだ。守り続けてきたものが、築き上げてきたものが、バラバラになって霧散する。世界中に広がって、全てのものを愛し続ける。どこにもいない私はついに、どこにでもいる私となって、愛する世界を包み込むのだ。人々が私を忘れても、私は忘れずにいられるだろう。それはただ、私だけが残り続け、背負い続けるということだ。私には責任がある。私が殺してきたものたちへの。私が傷つけてきた世界への。それを背負い続けることだけが、私の存在を許す唯一の手段。それが私の全てなのだ。私が私のために何かを望むことが許されるなら、ただひとつ、背負い続けられることだけ願う。

 これは悲観や後悔ではない。ましてや、恨み言などでは決してない。私はただ……いや、分からない。何を言おうとしたのだろう。でもこれだけは確かなのだ。私はこの生き方を、不当だと思ったことはない。私は世界の全てを愛す。私以外の全てを、愛す。