かつて誰もが

 外へ出ると、雨が降り始めていた。傘たてに群生する傘の中から、僕は自分の傘を探す。ありふれた黒い傘はいくつもあって、なかなか自分のが見つからない。これは違う。これも違う。似てるけどやっぱり違う。がさがさやっているうちに、自分の傘がどんなだったか分からなくなってくる。ほんとうに、傘なんて持って来ていたんだろうか。
 どうやらこれらしい、という傘を見つけ出すために、僕はバスを1台見送った。講義には遅刻だな。いっそ公園で一日中ぼんやりしてようか。傘なんて捨ててしまえ。濡れたからなんだって言うんだ? 死ぬワケじゃあるまいし……死んだから、なんだって言うんだろう。どうして、死んじゃいけないんですか? 自分で吐き出した言葉を思い出しながら、僕は傘をさして歩いた。本が濡れるのはまずい。


「来ないと思ったのに。一応まだ授業受ける気あったんや?」
 学友のひとりは開口一番そう言った。「ありますあります。先週一週間休んでいただけですよ」と、答える。へらへら笑って見せたのが逆効果だったらしく、彼は、ハッと鼻で笑ったきり黙ってしまった。
「一週間まるまる? 何してたんですか?」別の学友が問いただす。
「いや、特に何かしてたワケでは……」生きることの必然性について考えていたから、授業どころではなかった。と言って、彼らは納得するだろうか。この前は「いえちょっと、本を読んでいまして」と答えて呆れられたっけ。
「こないだ学食にいましたよね?」
 そういえば、二日ほど前に学食でふたりを見掛けた。見つからないようにうまく避けたつもりだったけど、バレてたみたいだ。
「ああ、いました。私も二人を見掛けましたよ」
「授業出てへんくせに学食おるとか意味が分からん!」
 さっき僕を鼻で笑った彼が、今度は、心底呆れたという調子で吐き捨てる。僕は、はははすみません、と笑って見せた。笑うことしかできない。論理的に反論することも、熱く語り合うことも、できやしない。彼らは僕と同じ哲学科で、僕よりもずっとまじめに哲学を学んでいる。難しい用語も知っているし、本だってたくさん読んでいる。デカルトニーチェプラトンスピノザ、エトセトラ。優秀な学生だ。
 優秀な学生らしく、ふたりは、プラトンがどうとかって話を始めた。僕には何のことやらさっぱりで、それは、カウンセラのノートを想起させる。つまり、わざと? まさか。うんざりだ。僕は別のことを考えていた。うんざり――unser――我々の――我らの時代*1――In Our Time――There was a time when everybady and his brother wanted to act cool.*2――年中霜取りをしなければ……霜取りをしなかったら? 使えない。たぶん僕は、霜取りをサボったんだ。それで……。
「あ、じゃあ、僕らこれから講義なんで、失礼します」と学友が言った。いってらっしゃい、と返す。
「そうだ、『和解』*3貸してもらえませんか? この間薦めてくれていたヤツ」
 学友の頼みに「いいですよ」と答えて、左手を軽く挙げた。学友ふたりも同じように左手を挙げる。「じゃ、お疲れさまです」「お疲れー」お疲れさま。見送りながら、さっきの連想ゲームは、まるで『歯車』*4だったな、と思う。最近読んだせいだろう。僕は、自分が存在することを仮定した上で、自分が人間かどうかを考え始めた。ひょっとすると、河童かも知れない……突然変異の。いや、何を言ってるんだ。僕は紛れもなく、ニンゲンじゃないか。

*1:アーネスト・ヘミングウェイの著作。原題は“In Our Time”

*2:村上春樹風の歌を聴け―Hear the wind sing』より

*3:志賀直哉

*4:芥川龍之介