目的の必然性

「なぜ生きるんですか?」と僕は訊ねた。カウンセラは「やっぱり」という顔をして、ノートに何か書き込んだ。僕は僕で、内心「やっぱり」と思っていた。
 答えられるワケが無い。答えたつもりになっている大人たちも、たいてい的外れなことばかり言っている。目的の話ばかりする。「○○のため」「××するため」「△△があるから」僕はそんなことを訊いてるんじゃない。生きるための方法なら、僕にだって考え出せる。生きようと思えば生きられる。生きなければならないのなら、生きられる。カントの言葉を借りるなら、僕は義務に基づいて生きているのだ。でも、ほんとうに、生きることは義務なのか? 僕が訊いてるのはそういうことだ。生きることの必然性。「どうして、死んじゃいけないんですか?」
 カウンセラの眼は僕を見ていなかった。僕のほうを向いてはいたけど、違うものを見てる。「生きるのがつらい?」と彼女は聞いた。笑ってしまいそうだ。何とか堪える。堪えるのに必死で、何も答えられなかった。沈黙は時に肯定と解釈される。今みたいに。彼女はまたノートに何か書いた。わざと読みにくく書いているな、と思う。僕に読まれちゃ困ることが書いてあるんだ。きっと。僕もノートを持って来ればよかった。そうして、彼女が何か訊くたびにノートへ書き込む。面白い質問と、面白くない質問とに分けて。「生きるのがつらい?」は面白い質問だ。滑稽という意味で。生きることのつらさなんて問題じゃない。そんなこと訊いてどうするの?
 生きる方法はいくらでもある。他者を信じられるなら、誰かに「生きろ」と言ってもらえばいい。誰かに必要としてもらって、存在の価値を与えて貰えば、何とか生きられる気がする。他者を信じられないなら、言葉に頼ればいい。僕らは言葉でできている。概念と、概念の組み合わせ。そのシステム。言葉と自分を直結させることによって、存在を主張し続けられる。他者がいなくても。僕は僕として、世界そのものとして、存在できる。でもきっと、このカウンセラは僕よりずっと生きるのがうまい。やりがいとか、生きがいとか、そういうものを糧にして生きていられるタイプの人間だ。もちろん、他者を信じられる。それって素敵なことだと思う。僕だって、そんな風にも生きられるかも知れない。けど。そんなの全部、「生きるため」の方法だ。どうやって。ハウツー。分かってるんだ、そんなことは。どうにだってなる。
 誰が僕に「生きろ」と言ったんだ? 神様、アンタがそう言うなら僕は生きるよ。でも僕には神様の声が聞こえない。どんなに耳を済ませても。聞こえてくるのは、きっと、僕の声だ。うるさい。「じゃあ、また来週ね」カウンセラが言った。僕は黙って席を立つ。頭を下げてドアを開ける。ガチャリ。振り返ると、彼女はまた、ノートに何か書いていた。言葉。でも違う。あれは、生きるための言葉じゃない。言葉に頼らなくても、彼女は生きていられるんだ。生きることの必然性を疑っていないから。
 死にたいわけじゃないさ。そんなこと言ってない。じゃあ、生きたい? 存在していたい? ……分からない。どうして、分からないんだろう。たぶん、生きるのは、こわい。太陽や月が昇ったり沈んだりして、つまり地球が自転しながら公転して、雲が流れたり雨が降ったりしながら、時間の概念に支配されて、いつもどこかで誰かが死んで、その誰かだって、太陽だって月だって地球だって、ほんとうは存在しないかも知れない。僕は何も見ていないのかも知れない。カウンセラの眼と同じで。そんな風に考えるのはこわいことだ。けれど、僕の眼に映っている世界では、どうやらみんな生きていて、しかもいくらかは必死に生きていて、「生きるため」の方法を探すのに苦労してる。そんな誰かの存在を疑うなんて、酷いことをしているに違いないんだ。誰かを傷つけて、殺しているような気がする。そんなことをしてまで、僕は、生きなきゃいけないんだろうか。
 僕が生きていることでつらい思いをするのは、僕じゃない誰かだと思う。だから、僕の生きるつらさなんて、ほんと、問題じゃないんだよ。