私たちに贖罪はない

 「存在の否定は、殺人よりも罪が重い」と、誰かは言ったらしい。

 私たちが生きるこの世界は、混沌の巣窟だ。色々なものがあり、色々なものがいる。あらゆる存在は生きている。存在を主張し、生を叫び、死を涙しながら箱詰めにされて、はみ出した部分は切り捨てられる。あるいは、箱詰めにして切り捨てる。分節化され、分節化する。受動であり能動なのだ。すべては繋がっている。どこにだってアクセスできる。アクセスしてしまっている。

 だから、あらゆる存在と、完全に関わらずに生きることなどできはしない。直接と間接の違いがあるだけ。「関係ない」はありえない。「関わっていない」と思っているなら、それは存在を無視しているのと同じである。存在の否定。生きていることの否定。最初から、生きてなどいないのだという、断定。「お前らは俺の世界にはいない」と、言ってしまっているのだ。「関係ない」は、「関わっていない」か「関わりたくない」の言い換えに過ぎず、結局のところ、誰かが存在しているという事実そのものを抹消してしまう。「どうでもいいじゃん」デリート完了。

 そういうスタンスによって否定される存在が、いったいどれだけのものを奪われているか。よく考えるべきだと思う。その存在が洩らした呻きや、流した涙や失った言葉。その存在の壊された世界や、かき消された叫びや切り刻まれた思いの数々。そのじわじわやギリギリやじくじくやギシギシを、引き起こしたのは、誰なんだ? アクセスエラー。データが壊れています。またか。また切り離されたのか。

 広い、そう、ある意味では無限に広がるこの世界で、私たちが直接関っているのはごく少数かも知れない。小さな狭いドームの中でしか、私たちは生活できていないのかも知れない。けれど、世界はもっと広いのだ。私たちのドームの外にも、誰かや何かは存在していて、生きている。私たちはその誰かや何かを、締め出して、つまり切り捨てて、生きてしまっている。Aの選択は、同時にAでないものを排除してしまうのだ。私はそれを知っている。その事実、そのシステム。切り捨てざるを得ない力学の存在。逃れられない力学に縛り付けられ、呪われている。足掻いても足掻いても。私は今も、間接的に誰かや何かを殺して生きている。その誰かや何かと、直接的に繋がることができない。殺したのに! 殺したから? ノットファウンド。ページが見つかりません。くそ、またか!

 「関係ない」というスタンスを抹消したいワケじゃない。デリートしますか? キャンセルクリック。だってそれじゃ同じことだ。ただそのスタンスに対して、極めて個人的な意見を述べることが許されるなら、私はそれを「正しい」とは言いたくない。絶対に、言いたくない。「関係ない」というスタンスを問題視しないスタンスも。そんなところに「正しさ」があっていいワケない。そもそも「正しさ」の実体なんてどこにもない。誰が、何を「正しさ」と「呼ぶ」か。それだけだ。そのシステムがあるだけだ。だから私は、「関係ない」を「正しさ」とは決して呼ばない。

 なあ、気づいてやってくれないか。彼らの呻き声やすすり泣きや歯軋りや地団駄や沈黙や空白に。それらが示す存在に。存在していたんだ。存在しているんだ。存在していたいんだ。彼らの「存在」を傷つけたり、奪ったりしているのは「私たち」なんだ。自覚した罪を償いきれないという事実よりも、罪に無自覚であるという無責任さを、私は恐れる。だからまた、コードを繋いで、

 アクセスしますか? 「はい」「いいえ」