雪の降らない朝に

 学友が「ギター貸してください」と言ってきたので、大学までギターを輸送。ギターなんて滅多に持ち歩かない私は、まだあまり馴れていない人と会話をする時の言葉選びみたいに、ギターの置き場所選びに苦労する。
 乗ったバスは通路の狭い、ふたり掛け席の多いバスだった。ふたり掛け席しか空いていないのだけれど、ギターがあるから座るとふたり分席をとってしまう。通路にギターを置けば通行の邪魔になる。立っていたらさらに邪魔だ。何人もの乗客の邪魔になるくらいなら、座席ひとつ無駄にするほうがまだマシだろう。そう思って、結局私はふたり掛け席をまるまるひとつ、占領した。ちょうどタイヤの上で足元が狭くなってるところ。そこを選ぶのが、私にできる精一杯の配慮だった。と、思う。ギターと並んで座るのは何だか落ち着かなかった。
 3つめのバス停で乗って来たおばちゃんが私のギターを軽く蹴ったので、私はなるべく窓側に寄ってギターをぐっと引っ張った。おばちゃんは隣のおばちゃんとの話に夢中で、ギターのことなんか気にも留めない。私は料理人の包丁と女優の顔について考えたあと、ギタリストではないからね、と結論した。おばちゃんも、私もだ。そのバス停で空いてる座席はなくなった。ギターが座っている席を除けば。
 その次のバス停で、がっしりした体格のいいおじいさん(おじさんと言ってもいいかも知れない)が、ギターの横に立った。一緒に乗って来たおじさんと話をしている。私は、どうしようかな、と思ったけれど、ふたり連れだし元気そうな人たちだからまあいいか、と思って、窓の外を眺めていた。
「なんで席譲らんのやろなぁ」
 真後ろから男性の声。わざと私に聞こえるように言ったのだと分かるような言い方だ。どうやら老夫婦の片割れらしい。そうか、と私は思う。それから、でも、と思い、やれやれと思って、ギターに手を掛けた。停車と同時に体をずらしながら、立っているおじいさんに声を掛ける。「よかったら座ってください、私、大丈夫ですから」その途端、またさっきの男性の声。「あれ、大きな荷物持ったはるわ!」おじいさんは窓側に座り、私に通路側を譲ってくれた。私はギターを気にしながら「ありがとうございます」とお礼を言った。後ろの席の男性は、それっきり何も言わなかった。


 私はこの出来事を、愚痴として語りたいのではない。誰かにお説教がしたいのでもない。私はべつに腹なんか立てちゃいないし、かと言って呆れたりもしていないのだ。そういうものは、この出来事の中にはない。私がこの、ギターを抱えた私について思うのは、ただすこし哀しいという、それだけだ。どうしようもないこと。仕方のないこと。誰も悪くない。これは善悪ではない。回避できるものではない。回避する必要もない。たとえばそれは雪のように。音もなくやってきて、アスファルトへ下り立った時にはもう消えてなくなってしまっている。それでも、降る雪を喜ぶ誰かがいるのだ。私は雪が好きだ。降る雪も積もる雪も、とけて消える雪の冷たさも。雪だるまがとけた後に残った、ふたつの小石だって、私は好きだ。
 でもそれらはきっと私を哀しくさせる。そしてそれゆえに私はそれらを好む。