犬は啼いた

 さむい冬の夜に犬は啼いた。「わん」でもなく「おんおん」でもなく「アオーン」でもない。しかし啼いた。空にはオリオンの三ツ星が輝いていたかもしれないし、向かいの家では植木に巻き付けられた電球がチカチカしていたかもしれない。けれど、犬の眼に映っていたのはもっと別の何かだろう。その何かを僕は知らない。犬は何も言わなかった。一度啼いたきり、あとは沈黙だ。あるいは啼く前にもずっと、犬は沈黙していたのかもしれない。
 犬の沈黙は、あまり穏やかなものではなかった。少なくとも僕にはそう思えた。まるで、世界を揺るがすほどの爆音を呑み込んでいるみたいだ。犬は時々チラリと僕を見たけれど、それ以外はずっと、座ったままうつむいて地面を眺めていた。犬がこちらを見る度に、僕の胃はキリキリと痛んだ。だけどそれだって、ほんとうは寒さのためだったのかもしれない。両手足の指先は、間違いなく寒さのために、ピリピリと痺れていた。犬は寒くないのだろうか。たとえば、犬には毛皮があるから寒くないのだ、と言うこともできるだろう。その逆に、犬は服を着ていないから寒いに違いない、と言うこともできる。けれどそんな言い方とは全然別に、犬はさむさを感じない、と言うことだってできるのだ。僕だって、さむくはない。寒いのは両の手足だから。
 犬がパタリとしっぽを振ると、そばにある植木の葉っぱが揺れた。それだけで、冷たい空気が動いているのだとわかる。犬は空気を動かして、葉っぱがそれに応えるのだ。けれど犬はそんなこと全然気にしていないようだった。気にしているのはもっと別のこと。そんなふうに考えているのは僕で、犬を「犬」と呼んでいるのも僕だった。犬が啼いたその夜を「さむい」と言ったのもきっと僕だろう。そして僕は犬じゃない。犬の啼き声を言葉にすることはできないし、犬の沈黙が語ることもわからない。「ほんとうのこと」は僕に知らされてはいない。というかそもそも、犬はさむさを感じないように、「ほんとうのこと」も持たないんじゃないだろうか。なんて考えてみるけれど、そう考えたのはやっぱりどうしようもなく犬じゃなかった。
 犬の啼き声を思い出してみようとしたけれど、はたして犬は啼いたのだろうかと疑問に思うほど、その音は姿を消していた。