鈍く転がり

 曇天。雨が降るかも知れないと思わせるような空なのに、空気はちっとも冷たくない。暑くもなく、冷たくもなく、ぬるくもない。空気があるということすら感じられない。けれど、まあ、あるんだろう。どうせなら、痛いほど冷え切った、たとえば針みたいな雨でも降ってくれればいいのだけれど、春の曇り空にそんなものを降らせる力はない。春だって? 冗談じゃない。

 能天気な顔をしてやってきたバスに乗り込んで、iPodの電源を入れる。いくつか曲を流してみるけれど、どれも10秒と聴いていられない。耳障りで不愉快だ。違う、これも違う、これはうるさ過ぎるし、これはダウナー過ぎる。どうやら、ショパンノクターンくらいしか聴けそうにない。20番、遺作。ひょっとして、疲れてるんだろうか。どう思う、ショパン? 訊いてみるけれど返事はない。そりゃあそうだ。彼は今、ノクターンを弾くのに忙しい。でも今の僕はそれでいくぶん気が楽になった。人の声を聞かずに済む。

 やれやれ。まだイライラしているな。そして何もする気にならない。にもかかわらず、今僕はバスに乗って電車に乗って仕事へ行こうとしているのだ。仕事が嫌いなワケじゃない。ただ、今はやりたくない。本を読むのもゲームをするのも、散歩をするのも嫌だ。猫と遊ぶのだって。気が向きかけたらその対象がいつの間にかどこかへ行ってしまうのだ。だから何も捕まえられない。捕まえようという気も、一緒にどこかへ行ってしまう。かといって何もせずにいたら、24時間、1秒も休むことなくイライラしていそうな気がする。そんなことだってしたくはない。まったく、ひどい気分だ。と、僕は思った。

 どうもジャケットがタバコ臭いと思ったら、昨日会った学友が吸っていたからだ。学友に会う前は別の知り合いに会っていた。その前の日は自動車運転免許の学科試験を受けに行ったし、その前の日は仕事だった……ハードスケジュールだ、僕にしては。「疲れてるんだ」と言ってもおかしくない。でも、たぶん、そういうことじゃあないだろう。たとえ疲れているとしても、スケジュール的に疲れているワケじゃない。きっと春のせいか、でなければ、満月のせいだ。満月はいつだったっけ。つい最近だったと思うけれど。

 なんて、くだらないことを考えながらイライラしているのがよくないんだ。よくない? 誰にとって? 「第二次成長期を終えてないんじゃないですか?」と彼は言った。「いったいいつからいつまでが第二次成長期で、どうなったら終わりなんですか?」と、僕は言わなかった。腹を立てるのは子供だからもっと大人になったほうがいいと言われて、そういう言葉にまた腹を立ててしまうくらいだから、きっと僕は子供なのだろう。少なくとも彼的には。でも「腹を立てるな」と言われて、立った腹が大人しくなってくれるかっていうと全然そんなことはないワケで、「腹を立てちゃいけない」と思ったくらいで冷静さを取り戻せるような腹の立ち具合で済むのならいくらでも我慢ができるんじゃないのか。と、僕は思ったりする。思うだけだ。思うだけでいいんだ。思うだけでいいのになあ。と思っていると余計にイライラしてきたので僕はもううんざりだ。

 そんなことを考えながらバスを降りると、降りてすぐの曲がり角でティッシュを配っているお姉さんがいた。思わず受け取ってしまったけれどそれはソフトバンクティッシュだった。なんだソフトバンクじゃないかと呟いていたら黄色の点字タイルにつま先が引っ掛かってつんのめったし、駅のエスカレータでは若いカップルが左右両方の道を塞いでいた。やれやれと思って改札を抜けようとしたら直前の人が切符を取り損ねて、電車に乗る時は案の定3人くらい順番を抜かされた。

 でもこんなのはよくあることだ。よくあることがいちいち気になっているということは、つまり、イライラしている。イライラはいろんな方向へ飛んでいく。その行きつく先を見届けるのは難しいし、ましてや、それが生まれてくる原因ってヤツを発見するのはなおのこと難しい。原因を突き止めようとすると余計にイライラしてくるからだ。そのうち原因によってイライラしているのか、イライラが向かっているものを原因にしようとしているのか、分からなくなってくる。あるいは、最初からわからないままごっちゃにしてしまっている。

 それで結局、僕はまた曇天を見上げて、まったく実にひどい気分だ、と呟いたりするのだ。いっそのこと針が降ってくればいい。そしてみんな穴だらけにしてしまえばいいんだ。そのくらいすれば、世界の色だって変わるかも知れない。