スクランブルドエッグ

 ぼんやり彼女の顔を眺めていると、突然、彼女が「怒ってるの?」と訊いた。僕はぎょっとして、ズレかかっていた焦点を彼女に合わせ直す。彼女の丸い目が僕を見ていた。こんな生き物をどこかで見た気がする。動物園か水族館か、ひょっとするとゲームのキャラクタだったかもしれないし、あるいはテレビに出ていたナントカって芸能人だったかもしれない。けれど、たぶん、それは僕の知っている彼女であるはずだった。その彼女が、今度は「やっぱり怒ってる」と断言する。非難も哀しみも戸惑いもない、シンプルな断定だ。けれどその表情はとても複雑で、何が生まれてくるのか分からない卵みたいだった。僕は「怒ってないよ」と笑って見せようとして失敗した。顔も喉も思うように動かないのだ。笑おうとすれば涙が溢れそうだったし、声を出そうとすれば喉が震えて肺が収縮した。怒ってる? むしろ泣きそうだ。と、僕は思った。
 彼女はまた口を開く。「どうして?」シンプルな疑問。だったのだろう、たぶん。ちょっと不思議そうな顔をしてるようにも見える。けれど僕には、彼女のほうが腹を立てているように思えた。丸い眼が真っ直ぐ僕を見ている。卵。どうして? どうして僕が怒ってると思われてるんだ? 怒る理由なんて何ひとつない。彼女だってよく分かっているはずだ。だから訊く。どうして? 僕は、怒っていると思われるような行動をとった覚えはまったくなかった。今だって、怒ってなんかいない。どうして? 目の前の彼女は、答えを待っている。僕はいよいよ泣き出しそうだった。ただひと言、「怒ってないよ」と言って微笑みさえすればすべて解決するはずなのだ。僕はちっとも怒ってなどいないのだから。それなのに、内蔵は内側に引っ張られ、肺が縮こまり、喉も塞がっている。浅い呼吸をするのが精一杯で、涙を堪えるのに必死だった。


 眼を閉じて、ゆっくりと浅い呼吸をする。肺の中にはあまり空気が入らない。両の眼からポロポロと涙が零れた。眼を開けるとそこはいつもの居間だった。僕はソファの上で布団を被り直し、できる限り小さく体を丸めて、なんだこれ、と呻きながら彼女の丸い眼を思い出した。部屋の中はうっすら明るくなっていたけれど、布団を被っていてもすこし寒い。夜泣き? どうして? 彼女は怒っていただろうか。非難していた? 傷ついた? 僕は怒ってなんかいない。「怒って、ないよ」と、泣きながら呟いて、僕はまた眼を閉じた。