日常的な走り書き

 コーヒーを飲んでチョコレートを食べながら、僕は考えた。名前も知らない彼女について。


 彼女と会ったのは今日が初めてだ。大学の講義が終わって学友のひとりと話をしていた時、彼女のほうから声をかけてきた。たぶん、僕らが講義中の私語について話をしていたから。「初回はうるさくて困りますね、私、遅れてきたから真ん中あたりに座ってたんですけど」「まあ初回は仕方ないよ。どうせ来週には半分くらいになってるだろうし」とかなんとかって。
 そんな僕らに彼女は言った。「ほんとうにうるさかったわ。一番前に座ってたけど、うるさかった。あの人たちは何を話してるの?」
 学友が「さあ」と答えてしまったから、僕は何も言わなかった。彼女は今年からウチの大学へ編入してきたのだと言って、もう一度、「どうしてあんなにうるさいの? どうしてあんなアホみたいな人たちがくるの?」と訊いた。僕が苦笑していると、学友は「ああいう人たちはすぐ来なくなりますから」と言った。その通り。だから誰も注意しない。教授だって。彼女はまだ納得がいかない様子だったけれど、今度は別の話を始めた。
「私ね、一年前に母を亡くして、ものすごく哀しかった。ほんとうに哀しくて、自殺しようとまで思ったのよ。でもね、その哀しみを乗り越えてきたの。壮大な哀しみを乗り越えてきたのよ。それで、哲学を勉強しようと思って。私、勉強好きだったから」
 僕が「そうなんですか」と言うと、彼女は「どうして笑うのよ?」と言った。彼女はすこし僕を責めているようだった。笑ってる? 確かに、僕は笑っていた。大変だったのですね、という微笑みだったかも知れないし、あるいは、また苦笑していたのかも知れない。でも悪意を込めたつもりはなかった。なかったけれど、でも、どうして笑ったのだろう? 僕にはよく分からなかった。学友は「さっき先生も言ってたじゃないですか、哲学をやる人は、多かれ少なかれ、非日常的な問題に出くわしているものだ、って」と、彼女に言った。非日常的な問題。僕は無言で反復した。


 あの時、僕が笑ったのは間違ったことだっただろうか。と、僕は考える。正解も間違いもあるもんか、と僕が答える。だって、笑うしかないじゃないか? 母親を亡くしたこともなければ、その哀しみを乗り越えたこともない。そもそも僕は、母親を亡くしたところで、自殺しようと思うほど哀しめる気がしない。僕にとっての母親はそういった種類のものではないのだ。そういう事実、つまり、母親の死が自殺に結びついたりはしないだろうというシンプルな予測は、乗り越えられるものではない。乗り越える必要すらない。けれど、たぶん、ちょっと哀しいことだ。壮大ではないし、非日常的でもない。ノートの間に挟まっていたり、ズボンのポケットに入り込んでいたりする類のもの。彼らはとてもちっぽけだから、壮大な哀しみくんの前では、何も言えなくなってしまうのだ。だから、笑う。笑ってごまかすしかない。卑屈かも知れない。
 僕は彼女の「壮大な哀しみ」をわかってやれないし、彼女には僕の「ちっぽけな哀しみ」なんて取るに足らないものなのだ。僕と彼女の間にも「ちっぽけな哀しみ」が挟まっている。アホみたいな人たちと、非日常的な問題の間にも。
 別にいいじゃないか、彼らだって居場所が欲しいんだ。