もういいんだ

 何か言おうとして口を開いたのだけれど、その時にはもうこちら側にいた。残っているのは「もういいよ」という言葉だけ。どういう文脈で、誰が、どんなニュアンスで言ったのかは、ちっとも思いだせなかった。あちら側に置いてきてしまったのだ。こちら側の僕は枕に顔をうずめて呻きながら泣いている。ソファの上。身体を丸めて、哀しい夢でも見たんだろうか、と考えた。哀しい感じは残っていなかったけれど、でも、泣いているってことは、哀しかったのかも知れない。涙はまだ止まりそうにない。ひぃぃ、と息を吸い込んだら「またか」と声が洩れた。またか? 前にもこんなことがあったのだろうか。あったかも知れない。おかしいな、と僕は思った。
 夢を見て泣くのは、たぶん、これで3回目だ。「またか」と言ったのはそのことだろうか。それとも、夢の中のことだろうか。たとえば、そう、前にも同じような気持ちで泣いていたとか。夢じゃなくて、つまり、あちら側じゃなくて、こちら側で。考えているうちに涙は止まった。涙が出ていった分、身体がすこし冷えた気がする。さむい、と言おうとして口を開いたのだけれど、デジャヴを感じてやめた。どんな夢を見たのだっけ。