アメイジング・グレース

 雨だ。地下街での仕事を終えて地上に出ると、結構な勢いで雨が降っていた。傘はない。今の僕にあるのは、ほつれたカバンとびしょぬれの自転車だけだ。店から貰ってきた青いゴミ袋に薄汚れたカバンを突っ込んで、それをさらに自転車の前カゴへ突っ込む。ゴミ袋は雨粒に叩かれてトツトツと音を立てながら、狭いカゴの中で丸くなっている。よーし、行くぞ、と僕は誰かに声をかけて、雨ざらしの自転車を漕ぎ出した。
 コートは仕事場のロッカーの中。最近クリーニングに出したばかりで、濡らしたくなかったから。七分袖のシャツにジャケットを羽織っただけでは、さすがに雨の夜には寒いのだけれど、寒さよりも冷たさが、僕にはたいへん好ましい。
 ペダルの上で足を延ばすと、自転車の上に立ち上がるような格好になる。そのまま重心の移動だけで道行く人々を避け、人通りがなくなれば思いっきり立ち漕ぎでスピードを出す。ハンドルを握る指先がピリピリと痛む。ありとあらゆるものが冷たい。後ろから僕を追い抜いていく自動車も、そのライトが濡れた地面に反射した色やら光り具合やらも。歩道の段差を通るたびに、前カゴのゴミ袋がすこし跳ねてガサリと音を立てる。水溜まりを轢くたびに、シャアアアアと水しぶきが上がる。ズボンもジャケットもびしょ濡れだ。とても冷たい。耳元でヒュンヒュンと風が鳴る。
 風ってほんとうに耳元で鳴るんだな、なんてことを思いながら、僕は声をあげずに笑っていた。誰かに笑って見せているような笑い方。口の両端を吊り上げてそのまま気持ちよさそうに自転車を漕いでいる。そういうポーズをとることが、きっと僕には楽しかったのだろう。濡れて冷えた両耳が千切れそうだ。サイコーに気持ちいい。そんな感じ。
 何か歌を歌おう。と、僕は考えて雨の歌を探したけれど、その時の気分に合うようなものは見つからなかった。仕方がないから、なんとなく思い浮かんだ「アメイジング・グレース」を口ずさむことにする。もうすぐクリスマスか。でも歌詞を覚えていない。メロディをハミングして、何度も何度もくり返す。すれ違う人はいない。前方に傘をさした自転車が見えるけれど、まだずっと先だ。追いつきやしないだろう。