ストレートにディストァト

 ここのところ、何度も何度も「歪んだものはきれいだ」と書いている。私はきれいなものがすごく好きで、歪んだものがすごく好きだ。私の感覚にアクセスしてくるから。私の感情を動かすから。私はもっと歪みたい。
 ただこの「歪み」ってのは、見る角度によって微妙に意味が違ってしまうものなのだ。私の好む歪みは、相対的な歪みなのだと思う。人でも物でも構わないんだけれど、その他大勢と比べたときに、相対的に歪んで見えてしまうモノ。足並みの揃っていないモノ。そういう歪み方って、とても素敵。集団から外れている姿は滑稽にすら映る。しかも、そういう人や物は、よくよく見るとすごく真っ直ぐだ。真っ直ぐすぎるから、相対的に歪んで見えてしまう。他の人はもっと、本質的に歪んでいるから。真っ直ぐ歩こうとする人や、真っ直ぐにしか歩けない人は、蛇行する集団の中で浮いてしまう。その姿が実に魅力的。「ああ、いいなぁ」って思う。
 でも逆に、本質的に歪みすぎてしまっている人も、素敵だと思う。やっぱり足並みが揃わなくて、相対的にも歪んで見えてしまうから。
 私はね、もっと真っ直ぐ生きていきたい。相対的に歪んで見えるくらい、真っ直ぐ生きていきたい。それが私の憧れるモノだし、私の存在価値でもあると思う。ただひとりの私になりたい。これはとても、我侭な言い分で、まるっきり子供の戯言なのかも知れない。それでも構わないと思う。だってコイツは、私の中の「子供」ってヤツは、ずっと一緒に歩いて来た、淋しがり屋の捨て猫みたいなヤツなんだ。誰かに構って欲しくて、喚き散らしたり、物を壊したり、色々やってくれるけれど、だからこそ私が構ってやるしかない。置いていくのは残酷だ。クールじゃない。
 だから、私はいつまでも子供のように遊びながら、子供のように喚き散らして、生きていくんだと思う。その姿が、誰かの眼に歪んで映っていたら、私のくだらない生き方としてはきっと合格。