思考という名のコイン

 人が好きだ。一緒に居られたら幸せ。少しでも役に立てたら嬉しい。疲れた顔をしていたら心配だ。そう思える相手がたくさんいるのは確かだし、その気持ちに嘘はない。無理して言ってるわけでもない。心から、そう思っている、はずだ。断言するのは照れくさい。
 そういう「好きな人」が多ければ多いほど、毎日が楽しくなるし、幸せにもなると思う。だから、僕は、人が好きだ。


 でも、何か引っ掛かる。確かに人は好きだけど、それって結局、自分の都合? 人を好きな自分が好き。だから人を好きになるんじゃないか? 思考がぐるりと裏返る。
 自分の都合で人を好きになる、人を好きだと言いたがる。そんな自分は好きじゃない。存在意義が消えていく。自己消滅のベクトルが動き出す。自分で自分が許せなくなる。ただそれだけで、生きる価値すら見失う。そういう種類の人間なのだ、僕は。
 だから、見ないふりをしているのかも。思考が裏返るその前で、ブレーキ掛けて自己防衛。「人が好きな自分」だけを見て。生きるためだと言い聞かせ。できる限り単純に、可能な限り純粋に。その思考がすでに、単純でも純粋でもないコトを知りながら。それでもやっぱり生きるために。
 僕は弱い人間だ。人間だから弱いのか、僕が弱いだけなのか。生きるための防衛は、ある意味人間の強さなのか。或いはそれら全てなのか。答えはいつも見つからない。ただ、誤魔化したまま生きて行くのを、自分に許すのは嫌だから。たまには裏返るまで思考して、自分の内側を見てやりたい。自分自身に見せてやりたい。また思考が裏返る。


 僕は、人が好きだ。人間が好きだ。それって、どういうコトなんだ? 時々、ふと考える。考えた末にぎょっとする。
 僕は、猫が好きだったり、ざるうどんが好きだったり、赤色が好きだったりするのと同じように、人間が好きなだけかも知れない。猫ならたいてい、どんな猫だって好きなのだ。このネコが特別に好き、このネコじゃなきゃ嫌だ、というコトはない。ざるうどんだって、この店のざるうどんが好き、というコトはなく、赤色だって、この色鉛筆の赤が好き、というコトはないのだ。そんな風に、人間が好き。
 ある特定の個人ひとりを、特別に好きになったりはしない。ただ、人間だから好き。これってもしかして、本当はすごく、残酷な言葉だろうか。何か、欠落した言葉だろうか。
 それでも好きは好きなのだし、その度合いに多少差があるのも事実だし。考え過ぎの悪いクセ。また自分に言い聞かせ。これもやっぱり、生きるため。
 そして、僕が本当に好きなのは、自分だけなんじゃないかって、また思考を裏返す。そんな自分が死ぬほど嫌いで、殺したいほど好きなのだと、思う。
 サイテー、ってこういう時に使う言葉だ。