それでも生きていくために

 まただ。泣き声が聞こえる。私がズタズタに引き裂いた人たちの。傷つけられてもいい人間なんていない。傷つけてもいい人間だっていない。誰も、傷つけてはいけないはずなのだ。それでも私は傷つけている。生きるのはこわいことだと思う。いつも、誰かが、泣いているから。
「みんな傷つけあって生きていくんだ。それは仕方のないことなんだ。」
 分かってる。きっとその通りなのだろう。どうしたって私は、傷つけてしまうのだろう。でも、それなら、私は知っておくべきなのだ。自分が誰かを絶えず傷つけ、苦しませ、悔しがらせ、泣かせていることを。そして、そのことに対する責任を負うべきなのだ。傷つき、苦しみ、悔しがり、泣き叫ぶべきなのだ。
「アンタだって傷ついてるだろう?」
 違う。私は違う。私は、傷つくよりも多く傷つけ、苦しむよりも多く苦しめている。悔しがるのも、泣き叫ぶのも、足りていない。恵まれている。恵まれすぎている。私はもっと、背負うべきなのだ。だって、私は、きっと今も嘘を吐いている。嘘は人を傷つける。
「考えすぎだよ。」
 考えれば考えるほど、全てが嘘に思えてくる。私の存在が、意思が、信念が、根こそぎひっくり返って暴れだしてしまう。嘘をついているのは世界じゃない。私自身だ。私が、嘘を吐き出すから、世界が嘘に見えるのだ。なぜ、誰も、私の嘘を告発しない? 糾弾しない? 本当に気付いていないのか。気付いていないけど、知らないフリをしているのか。みんなもう、私を断罪する気にもならないのかも知れない。
「もっとシンプルに生きようよ。肩の力を抜いてさ。」
 シンプルに生きるって何だ。それってどういうことなんだ。何がシンプルなのかを考えなきゃいけないようなニンゲンが、シンプルに生きることなんてできるんだろうか。考えるからいけないのか。考えないのはこわいことじゃないのか。考えないっていうのは、つまり、目を瞑って耳を塞ぐことだろう?
 傷つけてきた人たちの泣き声も聞かない。責任なんて負わない。嘘を嘘と思わない。
「そういうことじゃない。何で分からないんだ?」
 何で分からないんだ? そんなこと、分からないよ。昨日から、いったい何回「分からない」と呟いたか知れない。私は何も分かっていない。いったいどこで何を間違えたって言うんだ。どうして私は、人を傷つけ、責任を負いきれず、嘘を吐いて、ぐちゃぐちゃのまま生きてるんだ? うまく生きるって、どういうこと?
「うまく生きることなんて、誰にも出来やしない。アンタはみんなと同じなんだ。」
 みんなと同じ。そう、ある意味では、みんなと同じだ。みんな一緒だ。何も、おかしくなんかない。私ひとりがおかしいとも思わない。けれど、私は傷つけ、誰かは傷ついている。そこに違いが無いって言うのか。そんな馬鹿な話があるか。私は傷ついてなんかいないのに。誰かは私を傷つけたと思って傷ついている。そんな馬鹿なこと、あっていいわけないだろう。
「それでも、生きていくしかないよ。」
 そうだ、私は生きていくしかない。生きるのはこわい。けれど、例え死んだとしても、それは必ず誰かを傷つけてしまうだろう。だから私は、怯えながら生きていくしかない。どちらにせよ人を傷つける。何が正しくて、何が本当で、何が最善なのだろう。
(うまれてこなければよかったのに。)
 昔、どこかで、聞いた言葉だ。誰が言った? 今も、その言葉は残っているのか。何だか急に馬鹿馬鹿しくなってしまった。私は笑って生きていていいんだろうか。笑っていたいと望むのは、許されることだろうか。