でも転げ落ちた

 ふと我に返ると、と人は言う。いったい、帰る場所としての我なんてどこに在るのだ、と僕は言う。むしろ、我に返ったときの「我」は、普段の我からは離れてしまっているのではないか。ということは、離れた状態から再び我に立ち戻ることを「我に返る」と言うのかも知れない。なるほど。それで、そのことに何か意味があるのか? 我から離れたままの何者かと、我から離れられない何者か。我に返ることなんて、できやしないじゃないか。いつも我であることは、いつも我でないことだ。
 これが我だ、と言えるような確固たる我など存在しない。そんなものはどこにも無い。誰も持っていない、はずだ。しかし僕らはどこにもないはずのものを探し続ける、かも知れない。そうして、それぞれがそれぞれの受け入れられる「我」を創り出す。作り物の我を掲げながら、「これが我だ」と叫ぶのだ。だって、何か叫んでいないと不安になるだろう? でも重要なのはここからだ。シンボルとして掲げた我を、他者に認めさせなきゃならない。「確かに、それがお前だ」と言って貰わなきゃならない。観客がいなければお芝居は完成しない、というワケだ。
 ところで、ここにひとりの役者がいる。役者は、自分の役をちゃんと分かっていて、どう演じるべきなのかもしっかりと心得ている。その通りに演じれば、観客は必ず割れんばかりの拍手を送ってくれる。しかし、役者は思うのだ。「私に拍手を送っているこの人たちは、私が誰だか分かっているのか?」役者は舞台の上で演じる限りにおいて役者なのだ。舞台から降りた後は、何者か分からない。役者自身にも分からない。役者は、拍手を浴びながら、次の瞬間に訪れる自己の消滅を思う。
 役者は舞台裏の自分を鏡に映してはいけない。観客は役者の舞台裏を想像してはいけない。お芝居は幕を閉じてはいけない。僕らは舞台から降りてはいけない。降りてはいけないのだ、きっと――。