一本道は選べない

 どうしようもない。仕方がない。それが選択の結果なのだから。と、誰かは言ったかも知れない。でも本当にそうだろうか。どうしようもないし、仕方がない。けれど、それは、選択の余地すら与えられなかったからではないだろうか。他に道が無かった。いや、最初から道など用意されていなかった。そんな中を這いつくばって進んだ先にあったもの。それが彼らの、あるいは僕らの、結果ではないだろうか。
 僕らには、選べないものがある。選べないものだけが残る。選べないものを、選んだつもりになるしかないのだ。責任を背負い込むか否かという選択だけが与えられる。つまり、「私は選べなかった」と言って責任を放棄するか、「いや、私が選んだのだ」と嘘とついて責任を背負い込むか。そのどちらかだ。
 責任を放棄するのは正直者だ。きっと素直で、誠実で、生きるのに必死だろう。「これ以上責任を負いきれないし、負いたくもない」と、彼らは言うのだ。そもそも、選択すら許されなかった彼らは、被害者ではないか。なぜ責任など負わねばならない? 彼らの言い分はどこまでも正しいし、合理的ですらあると思う。
 嘘をつくのは悪いことだ。と、僕は教えられた。僕は昔から嘘つきだった。そのために親から厳しく叱責され、引っ叩かれたこともある。そのくらい、ひどい嘘つき。そんな僕は、くだらない嘘で色々なものを傷つけて来た。傷つけるだけでは飽き足らず、切り刻んだり、破り捨てたり、叩き壊したり。とにかく様々な悪行を働き続けてきたのである。僕の嘘つきは未だなおらず。顔色ひとつ変えずに嘘をつく。嘘じゃない。と、真顔で言える。僕に人生設計など無いけれど、とにかく、閻魔様に舌を抜かれることだけは、まず間違いないだろう。痛いかな。痛そうだ。いやだなあ。
 さて、そんなニンゲンが何を選択するのかなんて言わずもがな。散々嘘をついてきた僕に、責任がないワケないだろう。選べるものを全て選び。その結果残った選べないものから、僕はもう逃げられない。逃げることは許されない。そういう選び方をしてきたのだ。面倒を回避して、責任を全力投球。つまり力いっぱいブン投げる。だから僕は選べない。選ぶ必要なんか無いのだ。どんなに不合理であろうとも、それが僕の結果だから。
 ところで、自分で責任を背負い込むのは、実はそんなに苦しくない。全ての責任が自分にあるのなら、自分ひとりで完結できる。誰かを問い詰める必要も無く、誰かに教え諭す必要も無い。そんなラクさを選ぶことが、僕らの生き方なのだと思う。それなりに合理的だろう。
 人間もニンゲンも、生きられるように生きるしかない。無理なものは無理なのだし、選べないものは選べない。選ぶ必要なんてない。それでも、僕らは、選び続ける。生きられる生き方を、永久に選択し続けるのだ。たとえそれが、もう選択でないことを知ったとしても。そういう風にしか生きられない。それでいいじゃん。