影と話すこと

 バスの座席に座って本を読んでいると、視界の端でチラつく影が気になった。文字を追っていた目で今度は影を追い、影の持ち主を辿ってみる。斜め前のおじさんだ。片手はつり革に。空いた手は、腕を掻いたり、髪を撫で付けたり、口元へ当てられたり。落ち着きなく動き回っている。こいつ、こいつだ。この影だ。
 この世界には、一挙手一投足に気を配らねばならない人間が、少なからずいる。例えば舞台の上で。例えば、母親とふたりきりの家の中で。けれど、それに加えて、影の動きにまで気を配らねばならない人間が、果たしているだろうか。それは人間と呼ばれるものだろうか。なんてコトを考える。妄想だ。
 最近時々、声がうるさい。僕の声だ。言いたいコトがあるのなら、鏡から出てきて話せ。そう何度も言っているのに。相変わらず私の話など聞いちゃくれない。私は何を聞いてるんだろう。と、かなりの頻度で、思う。別に何も聞いちゃいない。結局はただの妄想だ。妄想か? 妄想だろう。