マンデーモーニング

 ついに成功したぞ! 素晴らしい! やればできるじゃないか見直したゼ自分! と、櫛を片手に勝ち誇った笑みを浮かべていたのが午前9時。

 まだ45分もある。今日は出席できる。どころか、遅刻すらしない。何にって必修の再履科目にだ。お察しのとおり、というかご存じのとおり、私は常時スキル「寝坊壁」をSランクで取得済みである。起きるべき時間に起きられないのはもちろんのこと、目覚ましが聞こえない、無意識で(つまり眠ったまま)会話に受け答えしている、離れた場所の目覚ましを無意識に(つまり記憶にない)止めて寝床まで戻って来る、なんてことまで引き起こす。そんな具合だからひょっとすると再々履修、みたいな声も聞こえたり聞こえなかったりで、今日こそは出席するゼ、と気合いやら危機感やら焦燥やら、顔だろうが腹だろうが遠慮なく踏み付けていく猫の手やらを借りつつ何とか寝坊壁を突破した。というワケだ。

 寝坊壁さえ突破すればもう安心。であれば良いのだが、そうもいかない。人生そんなに甘くない、とは読者諸君もよく耳にするところであると思う。私は「低血圧」もAランクで取得済みなのだ。もちろん外は雨降りである。体が重い。泥のように? 鉛のように? 毎晩両親の愚痴を聞かされる子供の気のように? とにかく重い。あっちへのろのろこっちへのそのそ。「えーと次何するんだったっけ」を7回ほどくり返して、ようやく準備ができたのは9時37分だった。あれちょっと待って朝ご飯食べてない! ヨーグルトの賞味期限切れは心配だが、食べていると遅刻するので諦める。人生諦めが肝心、とも読者諸君のよく耳にするところであると思う。

 雨が降っていることを考慮しつつ靴を選んだところで、ハタと気付く。傘がない。なんだ井上陽水か。行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃ、って歌ってる場合じゃあなくて。私は傘を持ち歩く習慣がなく、出掛けた先で雨が降り出したら仕方なくビニル傘を買ったりする。それで、一時期は4、5本も傘を持っていた。ところが逆に、出掛ける時に雨が降っていて出先で止んでしまったりすると、すぐに傘を置いてきてしまうのだ。いやわざとやってるワケじゃない。けれど、バスの中やら電車の中やら、立ち寄った喫茶店の傘立てやらに、必ずと言っていいほど置いてくる。この間なんかは、ついに自分の傘が無くなったものだから、父の古い傘を無断で拝借して出掛けたのだけれど、それも失くしてきてしまった。だから、私にはもう持って行く傘が一本もないのである。これは困ったとあちこち探し回ったら、父の折り畳み傘を発見した。折り畳みなら忘れやしないだろう。やはり無断で拝借する。いつの間にやら9時50分。あれ、遅刻……? いや、まだギリギリ間に合うはずだ。勢いよく玄関の戸を開ける。

 足元をするりと抜けるものがあった。しまったと思った時には手遅れで、我が最愛のお猫様は玄関横の通路から家の庭へと走り去る。室内飼いだから大して遠くへ行けやしないはずだが、しかし、何も雨の日に飛び出さなくともいいのではないかと思う。というか、捕まえて家へ入れておかなければどうなるか知れない。何しろ彼は箱入りのお猫様で、まったくの世間知らずなのだ。庭にいる間はいいが、もし道路へ出て車にでも轢かれようものなら……想像するだに恐ろしく、心臓を鷲掴みにされる思い。と、普段なら考えるのだが今日はもうそんな余裕がない。

 遅刻決定! 許すまじ馬鹿猫!

 「―― ―― ――!!」と久しく口にしていないようなひどい罵倒語を吐き捨てながら猫を追う。怒髪天を突くとはまさにこのこと。流石の猫も驚いたらしく、あろうことか隣の家の庭へ逃げ込んだ。幸い隣は祖父母の家。裏口の戸を叩いて事情を説明し、「遅刻や……」とぼやきながら庭へお邪魔するが、猫の姿は見えない。おいおいマジかよどこ行きやがった。さして広くもない庭を探し回っていると、家の中から祖母が言う。「おったおった。アンタんトコの庭におるで」あ、そうですか。どうもお邪魔しました。

 我が家の庭へ戻ってみると、お猫様はしゃがみこんで草を食んでいらっしゃる。その前足の付け根あたりへ両手を突っ込んで持ち上げると、胴から下をぐるんぐるん回して暴れるものだからまるで全身がプロペラのよう。だけれど、そんなことより問題は泥だらけの四足である。私のコートを汚すのはやめろ。と言ってもお猫様は聞く耳持たず。また逃げられては面倒なのでコートが汚れるのは諦めて、抱き抱えると満足げに喉を鳴らすお猫様。腹立たしいことこの上なし。いや、分かっている。分かっているとも。彼は(飼い主に似て)ちょっと好奇心旺盛だっただけで、(飼い主に似て)ちょっと湧き上がる衝動を押さえられなかっただけで、(飼い主に似て)ちょっと雨の中を走り回りたくなっちゃっただけなのだろう。ひょっとすると彼は彼なりに、飼い主の願望を代わりに叶えて見せようとしたのかも知れない。何しろ我が最愛のお猫様がすることだから、悪意など欠片もあろうはずはなく、むしろ善意に充ち満ちていたに違いないのだ。ああしかし、そのような彼に対して私が選び得た言葉はただひとつ。

「ドアホ!!」

 お猫様の四足をタオルで拭きながら時計を見ると、10時を過ぎたところだった。どうやら30分ほど遅刻できそうな感じ。