ナキウサギ

 ウサギは泣いていた。眼を真っ赤にして泣いていた。またか。と、私は思った。最近、毎晩のように誰かが泣きに来るのだ。ウサギはもごもごと口を動かして、何か言った。私には何を言ったかさっぱり分からなかった。ウサギが泣いているからなのか、そもそもウサギとは話ができないのか、それすらもよく分からなかった。試しに「何だって」と訊きかえすと、ウサギはくすんと鼻を鳴らしてから、もう一度口をもごもごと動かした。どうやら「私は誰かを愛せているのでしょうか」と言ったらしい。そんなコト訊かれても。私が黙っていると、ウサギはさらに言葉を続けた。
「私を愛してくれるヒトはたくさんいます。けれど、私は、どうなのでしょう。そんなヒトたちを愛せているのでしょうか。分からないのです。だから、あのヒトたちは、私を愛すべきでないのです。あのヒトたちはきっと、私をウサギだと思って、それで愛してくれているのです。でも私はウサギのフリをしているだけで、こうして話すことだってできてしまうんです。お分かりでしょう、私はウサギではないのですよ」
 随分長く喋ったものだな、と私は思った。何か言ってやろうとも思った。けれど、うまい言葉も見つからず、結局「でも、ウサギだよ」とだけ言った。ウサギは耳をぴくりと動かして、またくすんと鼻を鳴らした。
「ええ、そう、そうです。ウサギです。私はウサギですよ。でも違うのです。ウサギである以前に私であり、しかも、私なんてものはそもそもいないのです。私はいないのです。それなのに、こうして話すことができてしまうのです。話してしまうのです。ペテンですよ、これは」
 何を言ってるのだろう。やっぱり私が幻を見ているだけなのだろうか。だとすれば、たしかに、ウサギはここにいない。
「話すというのは、それだけでもうペテンです。いない私が、あたかもここにいるかのように、存在を主張するわけですからね。そうしてみんな、そんな私のペテンに引っ掛かって、私をウサギだと思って、愛してくれるのです。ねえ、そうでしょう。だから私もあのヒトたちを愛したいのです。愛していたいのですよ。けれどその方法を知らないのです。ああ、教えてください、私は愛せているのですか? どうすれば愛せるのですか?」
「それって結局、君は誰も愛せやしないんじゃない? だって、君の存在を君が信じられていないもの。たとえば誰かが君に愛されていると思ったって、君はまた『愛されていると思っているだけなのです』とか何とか、言うんだろう?」
 相手はどうせ幻だからと、思いつくままを口にした。ウサギがいっそう激しく泣き出したので、私はすこし後悔した。ひどいことを言ってしまったのかも知れない。ウサギは泣きながら、ほとんど喚くようにして言った。
「誰も愛せない私など、愛されるべきでないのです。誰かを殺してまで生き残るほどの価値は、私にはないのですから。あなただって、私なんかに殺されたくはないでしょう! 私はさっさと私を殺してしまうべきです。ええ、そうですとも。私はもう誰も殺したくはありません! 私を殺して、それでおしまいです!」
 そこまで言ってウサギは耳をぺたんと伏せた。そのまま、もそもそと丸くなる。小さく小さく丸まったところで、じっと動かなくなった。謝ろうと思って口を開いた途端、ウサギは消えた。跡形もなく消えた。
 やはり幻だったのだ。