すべての赤鼻に捧ぐ

 いつもより早く目が覚めた。昨晩はいつもより早く寝たし、結果的にいつもより長く眠っている。それだけでもう、私の中の「いつも」は空っぽになってしまったみたいだった。朝食にパンを食べて、すこし早めに家を出る。仕事だ。私は駅前のデパ地下で惣菜売りをしている。ひじきとか、肉じゃがとかを売っているのだ。馴染みの客が「今日も元気ね」なんて声を掛けてくれたりもする。けれど、微笑みながら「えぇ、お陰様で」と返す今日の私は、何だかとてもちぐはぐな感じだった。
 商品を袋に詰めているこの手は、ほんとうに私の手だろうか。袋を広げ、商品を重ね、袋に入れる。袋の口はテープで止める。そのくり返し。機械のように。ほとんど無意識のまま動き続けるこの手が、ここにあるのだということを、私は信じられなくなって来た。私はここへ来る途中で電車にはねられたんじゃなかったか。そうして、元のカタチも分からないほど、バラバラに千切れ飛んでしまったんじゃなかったか。今も誰かが、たとえば顔も知らない警察の人なんかが、私の右手を探してウロウロしているに違いない。そんな風に考えると、私はむしろ「私の右手ならここにありますよ!」と言ってやりたい気持ちになった。私の中身は電車にはね飛ばされて、右手だけを従えて、惣菜を売りに来ているのだ。その右手で品物を渡しながら、「ありがとうございました。またお待ちしてます」と、私は微笑む。


 仕事が早く終わったので、くつしたを買って帰った。果たして、私がバラバラになっているとしたら、くつしたを買う意味はあるのだろうか。なんてことを考えながら3足まとめ買い。レジカウンタの上には「クリスマス用プレゼント包装承ります」の札が掛かっていた。そうか、クリスマスか。イヴの日はたしか満月だ。赤鼻のトナカイは不要かもしれない。それから私はバスに乗って、家へ帰り着くまで、ずっとトナカイのことを考えていた。
 満月の夜は明るいから、ふつうのトナカイが3、4頭もいれば十分プレゼントを配れるだろう。赤鼻は他のトナカイに笑われるか、でなければ気の毒そうな眼で見られる。今年は「その年」ではなかったのだ。サンタは彼に留守を任せる。暖炉の火が消えないように、時々薪をくべるのが彼の仕事だ。彼はにっこり笑ってその役目を引き受けるだろう。任せてくださいよ。部屋をあったかくして、お帰りをお待ちしていますから。サンタのソリを見送った後、彼が暖炉を覗き込むと、真っ赤な鼻先で真っ赤な炎がチラチラ揺れる。赤鼻は歌を歌うかもしれない。『ジングル・ベル』か、『サイレント・ナイト』か、『アメイジング・グレース』か……私はそのくらいしか、クリスマスの歌を知らない。
 バラバラだった私の体も、家に着くころにはちゃんとひと塊になっていた。けれどそれは、細切れになった粘土を集めてくっつけたみたいなひと塊で、玄関の戸を開けたのが右手なのか左手なのか、はたまた右太股なのか下腹なのかということも、私にはよく分からなかった。それでも玄関の戸を開けることはできたのだ。コートを脱ぐと、すぐ布団へ潜り込んだ。ひんやりと柔らかな感触のなかでうつぶせに丸くなる。自然と視界が暗くなった。


「寒いね」と彼は言った。ブラウンのタートルネックに黒いコートを羽織って、ウッドチェアに腰掛けている。誰かに似ていると思った。けれど思い出せない。それに彼は、その「誰か」ではなかった。私は箱の中から彼を眺めていた。箱には覗き穴がついていて、私はいつもそこから外を眺めているのだ。「いつも」というのがいつのことなのか私には分からない。だから「いつも」なのだろう。と、私は思った。部屋は暗くてひんやりとしていた。どこかに窓があって、月光が差し込んでいるようだったけれど、私の覗き穴からはその窓が見つけられない。
「暖炉の火はどうしたの」と私は訊いた。
「僕は赤鼻ではないからね」と彼が答えた。
 なるほどたしかに、彼は赤鼻ではない。でもトナカイには違いなかった。そして私は、ヒツジだった。私たちは、ウッドチェアに腰掛けたトナカイと、箱に入ったヒツジだった。そして今は、クリスマスイヴの夜だ。彼はプレゼントを配りに行かなかったらしい。そして、暖炉の番もしていない。
「私はプレゼントを貰えないのかな」
 そう訊いてはみたものの、自分がそんなにプレゼントを欲しがっているとは思えなかった。クリスマス用の世間話だったのだろう。彼はすこし首をかしげて「でも、君、プレゼントじゃないか」と言った。何だって、と言おうと思って開いた私の口から飛び出したのは「メェエ」というマヌケな鳴き声だった。
「だって君、箱に入ってるだろ。そこからじゃ見えないと思うけど、リボンも付いてるんだ」と彼は続ける。
「じゃあ」と私は言って、言葉を取り戻したな、と思って、「私はどこに配られるの?」と訊いた。彼は肩をすくめて「どこにも」と答え、それから、「喪中だからね」と呟いた。喪中か。と、私は思った。


 彼に似ている「誰か」は、いつも黒い服を着ていた。夏には黒い半袖のシャツを、冬には黒いタートルネックを着て、やや長めの前髪をサラサラと風に流していた。私はいつか、その「誰か」に尋ねた。
「何でいつも黒い服を着てるの?」
 「誰か」は肩をすくめて「喪服なんだ」と答え、それから、「いつ葬式があってもいいように」と付け足した。
「誰か病気?」
「病気じゃなくても、人は死ぬんだよ」と、「誰か」は薄く笑った。人が死ぬことについて考えるために、私はゆっくり眼を閉じた。
 最初に考えたのは、包丁のことだ。私には大きな挿し込み口がふたつ付いている。そこへ、ピカピカの包丁が刺し込まれた。一本ずつ、ていねいに、ゆっくりと、だ。痛みは感じなかった。たぶんそれは、刺し込むべき場所に、刺し込むべきタイミングで、悪意の欠片もなく刺し込まれたからだろう。だから私は、まったく痛みを感じなかった。包丁の柄を通して、両手に重い手ごたえを感じただけだった。それは、カボチャよりはずっと軽く、スイカよりはすこし重い手ごたえだった。そこで初めて、私は包丁を「刺し込まれて」いるのではなくて、「刺し込んで」いるのだと気がついた。刺し込まれているのはリボンの付いた箱のほうで、それは、もうずいぶん前に空っぽになってしまっていたのだ。いつもその中にいた彼は、いつか、電車に跳ね飛ばされてバラバラになってしまった。でも彼は葬式を嫌っていたから、私は、プレゼントを用意してお祝いしようと思ったのだ。