世界の真ん中のすみっこで

 何も、語りたくなくなる。僕の語ることを理解する人間なんてひとりもいないし、僕はいつだって誰かの語る言葉を理解できずにいる。それは、僕や誰かの頭が悪いからとか、理解力がないからとか、共感能力が乏しいからとか、そんなくだらない理由によるものじゃない。僕らは根源的に違っていて、食い違っているものをたまたま同じ記号で表しているだけなのだ。と言っている僕の言葉すら、あなたは理解しないだろう。そうして、こんな分かりきったことを今更つらつらと書き記している僕をこそ、くだらないヤツだと思うだろう。でも、僕は語らなければならない。義務的に。必然的に。語りたくなくても語らなければならない。この語りがそもそも虚偽であると感じながら、それでも。
 語りが虚偽であるのは、語りの中身が虚偽であることとは違う。語りの中身など分かるはずがない。分からないものが虚偽になり得るだろうか? つまり、理解できないことを虚偽だと断言できるだろうか? それすらも僕には分からない。けれど、とにかく、僕が言ったのはそういうことではない。語るという行為そのものが、虚偽であると、ペテンであると、僕は言ったのだ。誰ひとり理解しないことを、あたかも理解可能な事柄であるかのように、たとえばこの、文字という記号によって伝達可能な本質があるかのように、パソコンのキーを叩き続けているという行為そのものが、嘘っぱちだと、僕は語っているのだ。そしてそのペテンを続けることに罪悪を感じている。けれど、それは結局「人を騙すのは悪いことだ」という極めて道徳的な価値観によるものかも知れない。「人を騙すのは悪いことだ」という言説に対して、すべてではないにしろ、たいていの人が同意すると思う。僕もそうだ。そうだけれど、しかし、「人を騙すのは悪いことだ」という言葉、あるいは文字列が語っていることの中身を、僕はきっと理解していない。理解しないままその言説に影響を受け、罪悪と呼んでいる何かを感じているのだ。そのことがまた、僕に感覚の虚偽を思わせる。「分かってないくせに。」余計に罪悪を感じる。僕は生まれながらのペテン師なのだと思う。何も語りたくなくなる。でも語らなければならない。語りたくないと思えば思うほど、僕は語ることを強いられる。罪人には罰が与えられるべきなのだ、という道徳的な価値観によって! 誰も理解しないことを前提に、理解可能な風を装って、理解できない言葉を発し続ける。
 なんとなく分かったような気にさせるのはとても簡単だ。「ひとりぼっちで淋しい」とか「音楽を聴いていると楽しい」とか「アルバイトは社会勉強になる」とか……。でも僕には耐えられない。そんなやり方はできない。気持ち悪すぎるのだ。どうしたって語らずにいられないのなら、僕は、理解できないことを知らせなければならないと思う。騙されていることに気付かせなければならない。僕がペテン師であることを証明してみせなければならない。けれどもちろん、その証明の中身さえ、誰も理解しないのだ。僕が誰かを「ペテン師だ!」と断罪しないのと同じように。そもそも僕らが語る言葉というのは、その虚偽性を前提としたうえで扱われているものであるはずだ。ニセモノだって分かってるよね、という共通認識のもとに成り立つシステム。だから、誰もが互いにペテン師であることを知った上でペテンを行っている。どこにも罪悪など存在しない。と、言ったところで、結局それもひとつの語りである限り、誰ひとりとして理解するものはいない。誰かの語った言葉を僕は理解しない。僕は僕の語った言葉すら、理解できなくなってしまう。それでも、僕は、こうして語っている。語っているという事実を語っている。