the Rot Maker

 その音を聞いたとき、僕はソファの上で仰向けに寝転がっていた。部屋には僕しかいなくて、たぶん、そもそも、家の中には僕しかいない。なんとなく目を覚ました僕は、そのままなんとなく天上を眺めていた。そうして、やっぱりなんとなく、時計の音を聴き始めた。部屋には時計がふたつある。それぞれが、チッ、チッ、と一秒ごとに音を立てる。でもその、チッ、チッ、は時計によって微妙に違っていた。僕はその違いを聞き分けるのが好きなのだ。じっと耳を済ませていると、チッ、チッ、の他にも色々な音が聞こえてくる。通りを走る車のエンジン音や、庭の木が風で揺れる音、それから、台所で炊飯器が鳴る音。そういう音を順番に聴いていたとき、その音が聞こえたのだ。今それを語る僕は、もうその音を覚えていない。カタカタではなくて、ザワザワでもなくて、ジジジジジでもなくて……という言い方でしか表せない。とても不思議な音だったのだ。けれど、何の音だったのかはわかる。腐る音だ。何かが、腐っていく音だ。何が、どうして腐っているのかは分からないし、なぜその音が「腐る音」だと分かったのかも分からない。でもその時、たしかに、何かが、腐っていたのだ。しかもソイツは何かを語ろうとしていた。僕は聞き耳を立てて、腐っていく何かが語ろうとしている声を聴こうとした。けれど聞き耳を立てれば立てるほど腐敗音は遠のいて、腐っていく何かの声もその分小さくなった。聞こえてくるのは、車のエンジン音や、木の葉の擦れ合う音や、炊飯器の鳴る音や、隣の家のテレビの音や、どこかのガレージが開く音ばかり。腐敗音はどこかへ消えてしまって、その代わり、僕の頭の上のほうでケータイのメール着信音が鳴った。
 メールはバイト先の同僚からだった。寝転がったまま腕を伸ばし、手探りでケータイを手に取る。もういっそのことメールなんて無視してしまおうか、と考えた。でも考えたときにはもうメールボックスを開いていたから、ちゃんと本文も読んでしまった。曰く、「今日は人手が足りているから、体調が悪いなら休んでもいいよ、って店長が言ってる」とのこと。どうして僕の体調が悪いことになっているのだろう。と不思議に思ったけれど、そういえば、昨日「調子が悪い」と言ったような気がする。僕はソファの上で寝返りを打って、「大丈夫です、行きます」と返事をした。調子が悪いときは休まないほうがいい。


 仕事の支度をして家を出ると、外は霧雨だった。たぶん、霧雨だった。実のところ、その時の僕はただ、雨か、と思っただけで、今それを語る僕にはそういう印象しか残っていないのだ。けれど僕は傘を持って出なかったから、そんなにひどい雨でもなかったはずで、だから、霧雨だったのだと思う。それでも僕は一応傘立てのほうを見て、そこに一匹のヤモリだかトカゲだかを見つけた。僕の家にはよくヤモリだかトカゲだかが出るけれど、ソイツはいつも見かけるのとはずいぶん違っていた。ヤモリにしては体がちょっと大きいし、トカゲにしては尻尾が太くて短いように思う。何よりも奇妙だったのは体の色だ。パッと見は暗めの茶色で、その色がそもそもいつも見かけるヤモリたちよりも濃いのだけれど、その上、わき腹の辺りからは赤い斑模様が覗いていた。腹は真っ赤なのだろう。雨に濡れたらしいソイツの背中はてらてらと光っていて、ぬめりけを帯びているようにすら見える。その質感が僕にはたいへん好ましく思われた。触ったらきっと逃げるだろうな。と考えたけれど、どうしてもその背中に触ってみたくて、やっぱり手を伸ばした。僕の人差し指が背中に触れてもソイツは逃げなかった。おかしいな、と僕は思った。僕がよく見かけるヤモリやトカゲは、人差し指が近づいてきただけで、サッっと隠れてしまうようなヤツらなのだ。どうしてコイツは逃げないのだろう? 僕は人差し指を離して、もう一度、ソイツをよく眺めた。人差し指には、ソイツの皮膚の感触がまだ残っている。ぬめりけを帯びて見えたけれど、触ってみると実際はざらざらしていた。あんなにざらざらしているのに、てらてらと光って見えたのはどうしてだろう? 何となく腑に落ちないような、何かを誤魔化されているような、気色のわるい思いを抱えたまま、僕は家の門を開けた。


 駅までの道を歩きながら、ずっとそのヤモリだかトカゲだかのことを考えていた。そもそもあれはヤモリだろうか、トカゲだろうか。すこし大きかったけれど、皮膚のざらざらした感じや尻尾の太い感じからすると、たぶんヤモリだろう。でもあれはふつうのヤモリじゃないな。あの腹。この前写真で見たイチゴヤドクガエルみたいな色だった。「ヤドクヤモリ」と呟いてみて、ありそうな名前だ、と判断した。僕はこれからアイツをヤドクヤモリと呼ぶ。しかし、ヤドクヤモリというからには、毒を持っていたかも知れない。なるほど、毒があるから逃げなかったのだ。「触りたければ触ればいい」ということか。
 触ってしまった。と、僕は思った。そう思った僕に対して、僕は「何がいけない?」と言った。何がいけないのだろう。触りたければ触ればいいのだ。毒があったらその時はその時。死ぬ時は死ぬ時。なんてことを思いながら、僕は白線の内側へ下がった。いつの間にかホームの端っこで電車を待っていたのだ。横でケータイをいじっていた学生がスッと前へ出て、ホームへ滑り込んでくる電車のそばに立つ。サラリーマン風の男が、その反対側に立つ。僕は学生の後ろに続いた。どうして今、白線の内側へ下がったりしたんだ? よく分からない。誰かがそうしろって言った気がする。


 満員電車のドアが開くと同時に、詰め込まれていた人間がポロポロとこぼれるみたいに降りて来た。サラリーマンと学生と僕は、そのこぼれ落ちた人間が収まっていた隙間になんとか入り込んで、缶詰めのクッキーみたいにお行儀よくキュッと縮こまる。目の前で閉まるドア。その向こう側では、ホームが雨に濡れていた。雨か。と、僕は思ったような思わなかったような感じで、ただぼんやりと、流れ始めた景色をそのまま流していた。右のこめかみを何かが伝っていく。眼の玉だけをきょろりと動かしてみるけれど、こめかみを伝っていく何かを視界に収めることはできなかった。何かはこめかみを上から下へゆっくりと通り過ぎる。人に見つからないように細心の注意を払いながら移動しているかたつむりみたいに、ゆっくりだ。頬のあたりで止まった。じりじりする。僕は眼の玉をまたきょろりと動かして、ドアの向こう側を流れる景色を流そうとしたけれど、なんだか景色はあまり流れてはいなくて、とても静かだった。おかしいな、と思うよりも早く電車は駅に到着し、たくさん人が降りていく。僕もそれに続いた。かたつむりのことは忘れた。


 人の群れに混じって改札へ向かいながら、右頬の水滴を手の甲でぬぐう。ついでに前髪の水滴もはらっておく。今日は傘が要ったかな。と、前を歩く人の傘を見て思った。えんじ色のヤツ。僕の家の傘立てに突っ立っている傘も、似たような色をしていたのだ。仕事場までは地下道を通って行けるから、傘がなくても濡れずに済むのだけれど、すこし回り道になる。仕方ない。髪が濡れているなんてのは、飲食店の店員としてあまり好ましいとは言えない。


  * * *


 店にはもう何人かお客が来ていた。僕は従業員に「おはようございます」と一通り挨拶してまわった。店長が「大丈夫なのか?」と言ったので、僕は「大丈夫です」と返事をしてから体調のことを言われたのだと気がついた。すぐに「今日は元気です」と付け加えた。そばで会話を聞いていたらしい後輩が「風邪ですか?」と訊く。「昨日ちょっと調子悪くて、でも、今日は大丈夫だから」と笑ってみせると、後輩は「そうですか?」と怪訝そうな顔をした。僕は何も答えずに、店内を見渡した。客の入りは4割くらい。まずまずと言ったところ。
 僕の仕事はとても簡単だ。お客が来たら、まず「いらっしゃいませー!」と怒鳴る。それからすぐにメニューと水と手拭きを持って行く。頃合を見計らって注文をとり、それをそのまま調理場に伝える。調理場から料理が出てきたらお客のところへ運んで、「お待たせ致しました」と言いながら静かにテーブルに置く。ときどきグラスに水を注ぎに行ったり、追加の注文を聞いたりする他は、店のすみっこで観葉植物のふりをしておく。お客が席を立ったら、今度は「ありがとうございまぁす!」と怒鳴って、テーブルを片付ける。それをほとんど一日中くり返すだけだ。特にやり甲斐があるワケでもないけれど、嫌な仕事でもない。もっと面倒でややこしい仕事はたくさんあるだろうし、もっと簡単で、つまらない仕事もたくさんあると思う。あるいは、もっと華やかでやり甲斐のある仕事だって、きっとあるだろう。でも僕の仕事はこれなのだ。やり甲斐があるワケでもない簡単な仕事。それでいい。何しろこの店の和風しらすパスタは絶品だから。
 その日も僕は何十回か「いらっしゃいませー!」と怒鳴り、同じくらい「ありがとうございまぁす!」と怒鳴った。最後に「お疲れ様でしたー」と挨拶して、僕の仕事は終わる。店を出るときにはすっかり暗くなっていたけれど、雨はまだ続いていた。僕はまた地下道を通って駅へ向かった。


 帰宅のラッシュからはすこしズレているから、帰りの電車はあまり混まない。ふたり掛けの座席が二列並んだ車両で、僕は空いている窓側の席に座った。後ろの方から、呑み会帰りの学生らしい集団の賑やかな話し声が聞こえてくる。何を騒いでいるんだろう、と聞き耳を立てるけれど、何を言ってるのかさっぱり分からなかった。滑舌が悪いワケではなく、声が大き過ぎるというワケでもない。たしかに賑やかではある。でも、彼らは彼ら同士で会話できているのだから、何か意味の通ることを話しているはずだし、僕だってひとつひとつの音はちゃんと拾えた。まったく同じように発音することだってできる。それでも、一瞬後にはその音が何だったのかさえ思い出せなかった。まるで日本語じゃないみたいだったけれど、どうやらそれは日本語らしかった。でも、どうして僕がそれを日本語と思ったのか、今の僕にはさっぱり分からない。とにかく、その「分からない会話」を聞いているうちに気色のわるい感じがしてきて、僕はヤドクヤモリのことを思い出した。
 腐ってるな。と、僕は言ったかも知れない。少なくとも何かそんな風に感じはした。そうして、いつの間にかあの腐敗音が聞こえていることに気付いた。カサカサでもギシギシでもジリジリでもない。何が、どうして腐っているのか、僕にはやっぱり分からない。ただそれは腐っているのだ。端的に腐っている。すこしずつ、ゆっくりと。たぶん僕が働いている間も腐り続けていたのだろう。腐っていく何かの声はもう聞こえなかった。語るのをやめてしまったのかもしれない。腐敗音を含めたあらゆる音はぼんやりと不明瞭になり、ひと塊の生暖かい空気を作った。


  * * *


 雨はまだ降っていた。けれど、霧雨だった。そう、その時はたしかに霧雨だった。このくらいなら傘がなくても大丈夫、と僕は思って、そのまま駅から歩きだした。空気が霧雨を冷やしているのか、霧雨が空気を冷やしているのか、僕にはよく分からなかったけれど、とにかく、よく冷えた霧雨が皮膚に当たるとチクチクした。僕はそのチクチクがおもしろくて、ちょっと鼻歌を歌ったりもした。僕の他に、通りを歩いている人がいなかったからだ。誰かが歩いていたら鼻歌を歌ったりはしなかったと思う。
 僕は鼻歌を歌いながら家の門を開けて、何気なく玄関横の傘立てを見た。ヤドクヤモリはいなかった。いなかったけれど、僕はまたヤドクヤモリのことを思い出した。ヤドクヤモリの、毒のことを思い出したのだ。「忘れよう」と僕は呟いた。それから、玄関の戸を開けて「ただいま」と言った。


 彼らは珍しくふたりとも居間にいた。ひとりは男、もうひとりは女だ。並んでソファに腰掛けている。ふたりの正面ではテレビが何か言っていた。彼らは「おかえり」と言った。男はこちらを向いて、女はテレビに向かったまま。「遅かったね」と女が続ける。僕は、あぁ、だか、うん、だか分からない返事をして、「仕事だよ」と付け加えた。その時テレビが「おいちょっと待てよ!」と怒鳴ったから、女は口をすこし開いたまましばらくテレビの話を聞いていた。僕もテレビを見た。テレビの中でも雨が降っていて、男が女の手首をひっつかんでいる。女が何か言っていたけれど、僕には何のことだかさっぱり分からなかった。呑み会帰りの学生たちみたいだ。言葉の意味がとれない。音の連続としてしか認識できない。認識されなかった言葉たちが、僕の腹の底に溜まってるような気がした。テレビの画面が切り替わると、ソファの上の女が「あ、私このCM好きなのよねー」と声をあげた。その隣で男が「あぁ、これ、よく作ってあるよな」と同意する。それから、ふたりは同時にくすくすと笑った。僕も同じCMを見ていたはずなのに、ふたりがどうして笑ったのかさっぱり分からなかった。どこかに笑うタイミングがあったはずだ。でも僕は笑えなかった。ひとりだけ約束を破ってしまったみたいに感じて、テレビから視線を外した。そこらに積んであった文庫本をパラパラとめくる。しおりが挟んであるページを見つけて読み始めた。テレビは相変わらず喋り続けていて、ソファの上のふたりは、時々一緒に笑った。


 3ページほど読んだところで、僕は止まった。右ページの、真ん中よりちょっと左上の、「は」という文字を見つめたままぼんやりと考える。僕は何を読んでいたんだ? どんな話だったのか、何が書いてあったのか、一瞬前に読んでいた文さえ思い出せなかった。おかしいな、と僕は思った。僕はぺちゃんこでぺらぺらの紙切れになり、テレビの声は切れ切れにとても小さくくぐもって目の前を流れて行き、それでも僕は「は」を眺め続けていた。何かがちょんぎれたみたいになって、時間の外側に放り出されてしまった。今思い出してみると、そこはずいぶんねじくれた空間だったと思う。何しろ時間が僕を置いてずっと先を歩いていたのだ。僕はどういうワケか一歩も前へ進む気にならなかった。けれど、時間と僕の距離は全然変わらなくて、それはたぶん「は」のおかげだった。「は」だけが、ギリギリ僕を繋ごうと必死になってくれている。でもあまりうまくいってないらしかった。僕はしばらく空っぽのままその「は」を眺め続けていた。何かを思い出さなくちゃいけないような気がする。何だろう? 僕はすこし考えた。すこし考えてすぐに止まってしまった。何をしていたっけ? そうか、アイツが食べてしまったのだ。和風しらすパスタ。缶詰めのクッキー。何かの声。腐敗音は聞こえなかった。腐ってしまったのだ。「おかえり」と何かが言った。でもそれは、腐っていた何かじゃなかった。あれはもう、腐ってしまったのだ。おかえり、と僕は呟いた。


 男はまだテレビを見ていた。女はいつの間にかいなくなっていた。テレビは相変わらず何か喋っていて、どうやらアクションものの映画を映しているらしかった。「面白い?」と訊くと、男は「面白いよ」と答える。やっぱり腐ってしまったのだ、と僕は納得する。読めなくなった文庫本を閉じて、床に置いた。観られなくなったテレビの、聴けなくなった言葉を聞きながら、ヤドクヤモリのことを考えた。僕はヤドクヤモリを置いてけぼりにしてきてしまった。毒のせいにして。そんなことをすべきじゃなかったのだ。世界はもうずいぶん小さく縮こまってしまっているように感じられた。僕はパソコンの電源を入れて、ヤドクヤモリについて調べた。けれどそもそも「ヤドクヤモリ」なんて生き物は存在しなかった。
 トカゲとヤモリとイモリの画像を片っぱしから検索してやっと見つけたソイツには、「アカハライモリ」というちゃんとした名前があった。