中二的破壊衝動

 私の口をこじ開けて言葉を掘り出すのはやめてください。私を語りたいならば勝手に語ればよろしい。私にとってそれは「私」という何かの「ラベル」に過ぎません。そしてその「ラベル」こそが、あなた方にとっての私であることだって、重々承知しています。そして、私が語る「私」だって「ラベル」に過ぎないのです。あなた方が好き勝手に語る私と、私が無理やりにこじつけて語る私の間に、どんな違いがあると言うのでしょう。どちらがより正確で、どちらがより信憑性が高くて、どちらがよりホンモノかなんて、判別できるワケもない。と、私は思っています。そのくらい、あなた方だって分かっているのでしょう? 分かっているけれど、それでも、訊いてしまうのでしょう?

 「私には分かりません」では許さないくせに、断定的に話せば「断定できるじゃん」と返す。私に何をさせたいのですか? 「気を遣いすぎ」だとか「壁を作ってる」とかって言うくせに、私の鼓膜に不愉快な言葉を突き刺して、私の喉から言いたくもない言葉を引っ張り出そうと躍起になるじゃありませんか。私じゃない誰かについてだって、あなた方は分かった風に語るじゃありませんか。私に同意を求めないでください。「違う」と言えない私に、同意を求めるのはやめてください。と、言うこともできない私をあなた方はまた「気を遣いすぎ」だと言うのでしょう。だから私は言います。「気を遣いすぎ」だと思わせないために私は口を開いてへらへら笑いながら「どうでしょうね、よく分かりません」と応えるのです。できる限り答えることを回避するというやり方を選ぶことになって、それはまた「壁を作ってる」と言われることになるのです。でもそれが私の「ラベル」ですから、そこに誤りはないのです。あなた方は何も間違ってはいません。まったく正しい見解に落ち着いているのです。的確な指摘です。

 私だってほんとうに分からないのです。分からないから、正直に「分かりません」と答えているだけなのです。望まれているからそうしているだけの、作り物の「分かりません」なのか、分からないから「分かりません」なのか、それすらも分からないまま「分かりません」と答えているのです。だから、それは、間違ってはいないはずなのです。しかし「分かりません」で満足しないあなた方に、私は「私」を意味付けしながら説明してみせて、出来上がったその偶像のグロテスクさに吐き気を催しながら――


 嫌になった。自分の無価値感を語る自分も、語らされることも、その力学に対して怨みがましい言葉を吐き捨てている自分も、そういう自分が嫌だと言ってまた無価値感に結び付けてみせようとしていることも、結局そういう作業がすべて自分の内側へこもることにしかならないことも。腹に穴をあけてやりたい気分。内臓をぜんぶ引きずり出して風呂場に並べてやる。