不要な記憶がデリートできない仕様

 あの人が店に来た。「よぉ、お疲れ」なんて言って片手をあげて、相変わらずオールバックでメガネかけて、人の着物姿をニヤニヤ笑いやがる。私はちょっと眉をしかめて「お仕事だから仕方なく着てるんですー!」と憎々しげに言ってみせる。「元気そうやん」と言われたら「元気ですよ、お陰さまで」と返す。私はくるくると店内を動き回りながら、ニコニコと愛想を振りまきながら、いつものように仕事をする。あの人は店の奥で他の人と立ち話をしている。私は、あの人が来たその一瞬、店の空気が揺れて止まったのを知っている。あの人が今話しかけているバイトくんの笑い顔が、笑い顔だけれどひきつっているのに気づいている。それを眺めている社員さんの苦笑いにも気づいているし、今まで以上にあちらこちらへ忙しく動き回っているあのバイトさんはあの人から逃げているのだということにも、気づいている。きっと、みんな、気づいているだろう。面倒くさそうな返答にも、相変わらずな呆れ笑いにも、それぞれがそれぞれに気づいている。そして、たぶん、あの人だけが、気づいているようで気づいていない。
 あの人は私のおでこをぺしんと叩いて「またえらいデコ出してんなぁ」と笑う。私はまた憎々しげに「これでも伸びたんです! 店来られへんかと思うくらい切ってもうて、たいへんやったんです!」と言う。社員さんがまた苦笑している。「ほな、お疲れ。がんばりや」と片手をあげて出ていくあの人に「はぁい、がんばります。ありがとうございます」とお辞儀をして、私はまた仕事に戻る。誰かが「あの人何しに来たん?」と言ってるのが聞こえる。「相変わらずやなあ」「今なにしたはるん?」「さあ、料理屋で働いてるって聞いたけど」「どうせまたしんどいしんどい言うてるんやろ」「言うてましたよ」「やっぱり!」やっぱり。それからしばらく店の奥では昔話に花が咲く。たとえばあの人がどれほど仕事のできない人間だったかとか、あの人がどれほど短気でガラと頭が悪かったかとか、そんな話ばかり。私はその話を聞きたくないから、表へ出てお客さんの呼び込みをする。そうして、思い出さなくていいことまで思い出す。
 あの人はきっと店へ来るべきじゃないのだ。だって、哀し過ぎるもの。たしかにあの人は単純で感情の起伏が激しくて度量もないくせに兄貴面していたけれど、少なくともあの人なりに一生懸命ではあった。バカみたいに一生懸命で、見事に空回っていた。だから、――でも、もう要らないのだ。だから、あの人は店を出たんだろう?