サラミピッツァ

 夜明け前。僕は世界に腹を立てる。頼んでもいないピザがおまけつきで配達されるこの世界に。「寒い中ご苦労様です」と僕は言う。ピザ屋のお兄さんは「いえいえ、仕事ですから」と満足げな顔をする。僕はサラミの乗ったピザを食べない。けれどそんなこととは関係なく、「ありがとう」と言ってピザ屋のお兄さんを見送った。つまりそういうことだ。僕は世界に腹を立てる。苦労と義務と満足が充満している、小さな世界に。

なんかもうよくわかりませんが。

 なんなんだ。なんでみんなそんなに幸せなんだ。なんでそんなに幸せを撒き散らして幸せそうにしているんだ。僕のささやかな安息は、彼らの幸せに踏み潰されて蹴飛ばされて哀れまれて、どんどん惨めになっていく。何がいけない? 僕は幸せなんて望んでない。そんなもの願っていない。欲しけりゃいくらでもくれてやる。それでもまだ足りないのか? 今度は何が欲しいんだ。腕か。脚か。頭蓋の中の味噌でもすするか。でも残念ながら僕の頭はもうずいぶん昔に空っぽになっちまって、水の一滴も入ってやしないんだ。あるいは悪夢くらいなら詰まっているかもしれないが、そんなものを詰め込んでいる僕の頭を見たら、またあんたたちはステキなアドバイスをくれるんだろう。120パーセントの善意でもって。

 生まれてくる子供が僕を殺すだろうと僕が考えていたとして、そのどこに不幸がある? そのどこに不安がある? 僕には子育てに対する不安なんかこれっぽっちもないけれど、母親としてのプライドだとか義務感だとかも、やっぱりこれっぽっちもない。プライドや義務感や自覚を抱けないことが、どうして不安を抱いていることになるんだ? 子供なんて放っておいたってちゃんと育つじゃないか。僕は自分の子供を「育て」たりしない。必要なことはする。たぶん、ちゃんと好いてやることもできると思う。けれど、そういうことと、生まれてくる子供が僕を好くかどうかは、全然べつの話じゃないか。子供が何を必要として、何を好むかなんて、僕にはさっぱりわからない。当たり前だろ? だいたい、まだ生まれてもいないんだから。嫌がって生まれて来ないかもしれないじゃないか。だって僕が親なんだゼ?

 って言うとまた、母親になることへの不安、とかって言いだすんだ。産後ならマタニティーブルー。一時的なものなので、深く考えずにリラックスして過ごしましょう! これはこれは、ステキなアドバイスをご親切にどうも。まったく冗談じゃないよ。僕が今一番心配なのは、入院中の食事に出てくるだろう肉類をどう処理したらいいのかってことだ。

逃げるってことだ

 母親のヒステリックな叱責を浴びながら、何がいけなかったのかもわからないまま、私は馬鹿みたいに謝っている。すみませんごめんなさい私が悪かったです余計なことばっかりして。良かれと思ってやったことが全部母親を逆上させた。「もういやだ」と泣き出した私のそばで、父親は「パパだって嫌やわ」と怒鳴った。部屋には私ひとり残された。

 裏の家に住むおじいさんのぶっ倒れそうな咳を聞きながら、トーストにジャムをたっぷり塗り過ぎた僕は、今日も死を想っている。なんて馬鹿げているんだろう。もうやめたい、もういやだ、って呟きながら、栄養バランスを考えて食事をしている。ヨーグルトにフルーツグラノーラを混ぜて、お昼には小松菜と豆腐を食べよう、なんて考えている。何のために? きもちわるい。僕はどうしてまだ生きているんだ? もうこれ以上何もブチ壊したくなんかないのに、また何かが壊れていく。誰も僕のせいだなんて言わない。僕は何も悪いことはしていない。それでも、僕は「僕のせいだ」と思わずにいられない。たとえばそれは、疫病神や悪魔憑きみたいなもので、存在そのものが何かを壊していくんだ。もしも願いがかなうなら、僕という存在の存在がまるごと消えてなくなりますように。

でもそれが何になる?

 地団駄踏んで怒鳴り散らしたり、パニックを起こして泣き叫んだりするような夢ばかりみている。
 壁を引っ掻いて、テーブルを蹴り飛ばして、声を震わせて怒り狂う。そんな私を、周囲の人間は「そんなに腹を立てるべき事柄じゃないよ」という顔で見る。部屋中にわいた虫に怯えて声を限りに助けを求めても、誰も来ない。あるいは、「そんなことで泣くなんて馬鹿らしい」と言わんばかりに私を笑いに来る。私だけがヒステリックに暴れ回って、何もかもをぶち壊す。
 子供の夢もみた。「母さん、母さん」と慕わしげに私を呼びながら洗面器をライタで溶かして見せる息子は、やっとひとりで立ち上がるようになったばかり。嬉しそうにこちらを見ているけれど、たぶん、この子はいずれ私を殺すんだろう。と、思う。哀しみも恐怖も何もないまま、1+x=5の方程式を解くみたいに。私はその子の名前を決めた覚えすらなかった。

無力であり続けること

 強くなりたかった僕がいる。強さと弱さ、大人と子供、メシアとサタン。僕が求めていたものを、僕は強さと呼んでいたけれど、それはもしかすると誰かが強さと呼んでいるものとはまったく違うものなのかも知れない。と、僕は思う。ただ他に言葉を知らなかっただけだ。強さと弱さでない何かがあることを、強くなりたかった僕は知らなかった。

 ある時僕は「偉い人にはなりたくない」と言った。祖父は今でもそれを覚えていて、お酒の席なんかで口にする。僕も僕の言葉を覚えている。「偉い人じゃなくて、立派な人になりたい」ずいぶん幼稚な言い草だ。でもたぶん、立派になりたかった僕は強くなりたかった僕と同じだろう。強者や勝者や権力者や支配者になりたくなかった僕と同じだろう。